中村が担当したCDの解説です。「広さ」「距離感」をキーワードにした一つのブラジル音楽論。
サラ・ヴォーン/ブラジリアン・ロマンス(ソニーSME SRCS-9555)

ブラジルの文化を理解する上で重要なキー・ワードの一つに、「広さ」「広がり」といった事があると思う。実際ブラジルは日本の23倍もの面積を持つ広大な国だし、現実的な意味での「広がり」があらゆる表現に大きな影響を与えている事は確かだ。でも僕が言いたいのは現実的な空間の事だけでなく、「孤独感」や「切なさ」と言った意味での心的な距離感を意味する「広さ」を含む感性の事だ。
最近話題になったブラジルの映画に「セントラル・ステーション」(99年春公開)がある。日本ではブラジルの映画が公開される事は少ないが、「セントラル・ステーション」はベルリン映画祭のグランプリや、アカデミー賞の外国映画賞にノミネートされたことが注目されたのだろう。代書屋をしている初老の女と、母親を失って孤児になってしまった少年が、ふとしたきっかけで知り合い、少年の父親を求めて旅をするロード・ムービーだ。旅をするうちに最初はいがみ合い、喧嘩をしながら、やがてはお互いを認め合うようになる・・・、といった物語が淡々としたタッチで描かれている。
映画の詳しい説明はここでは省くが、少し残念に思うのは、日本での公開タイトルが「セントラル・ステーション」と付けられた事だ。たぶん物語の冒頭がリオの中央駅から始まるのでそうなったのだろうが、原題は「セントラル・ド・ブラジル」すなわち「ブラジル中央」という意味で、これはロード・ムービーの常とも言えるが、二人の孤独な主人公と同等のファクターとしてブラジルの中央部の荒涼とした風景が重要な役目を果たしているからだ。
余りに広い空は主人公たちの孤独感を強調する。その果てしなさはかえって閉塞感をも感じさせる。でも「セントラル・ステーション」の中の風景は荒涼としていても不思議と無機質で乾いたものでなく、独特の湿り気と、どこか懐かしく主人公たちの孤独を包み込むやさしさのようななものを感じさせる。その中でお互いに歩み寄ろうとする孤独な魂と魂。偶発的で希薄な出会いで始まった二人の心の距離は荒涼とした風景と同様に遠い、しかしその距離が遠いほど、それを越えようとする時、熱い思いがこもる。それを声高に叫ぶのではなく、淡々と語ることによって、より切なさが浮かび上がる。たとえばハリウッドの映画のように盛り上がるクライマックスに、何とかの愛のテーマ、といった歌い上げる曲が被さるような分かりやすい過剰さはここではまったくない。ただお互いに離ればなれになった主人公が、一人はリオに戻るバスの中で、一人は遥かに去っていった人を想いながら、同じ記念写真を取り出して見るシーンが静かなクライマックスになる。ハリウッド映画のように過剰さによってかえって魂の距離感を壊してしまうことはない。二人の距離感の切なさは静かに肌の感触として残る。
同じような荒涼とした大地を映し出していても監督やスタッフの感性でその印象は変わる。これまでロード・ムービー的な映画はたくさん見て来たし、勿論その中で映し出される風景はそれぞれ微妙に違っていたが、その多くは無機質な感情のない風景だった。それはそれで映画的な興味や興奮を感じるが、「セントラル・ステーション」で描き出される風景の湿り気のある「広大さ」は新鮮だった。そしてその静かさにとてもブラジルを感じた。
音楽の世界でも僕は同じような風景を感じる。ブラジルは様々なリズム、音楽形態の宝庫だ。ボサ・ノヴァのように都会的なもの、エスニックな部分を強調したMPBや様々な音楽があり、外見としてはそれぞれが著しく違っている。でもどこか共通に感じるのは、その懐かしさを含んだ「広大さ」だ。音の裏に見えてくるその「広大さ」に僕は安らぎを覚える。
こんな風に感じる事がある。
よく人生というもの自体が一つの旅にたとえられる。誰もが人生という時間と空間を旅する旅人だ、という言い方だ。東京のような狭く人の密集した所にいると、その言い方は何となく気障で陳腐な言い方に聞こえるが、ブラジルにいると、たとえそれがリオのような都会の中でも、すんなりと受け入れる事が出来る現実味を帯びる。ヨーロッパやアフリカといったそれぞれ別々の土地から来た人達が集まってブラジルという国が出来ている、という歴史がそうさせるのかもしれない。それと広大な大地だ。それが個人と個人の魂の距離を自然な形で感じさせ、文化にも反映するのだろう。でもその魂の距離感というものは、何処にいても同じ事なのではないだろうか?たとえ満員電車のすし詰め状態の所にいても魂の距離感と言うものは変わりようがないでのはないだろうか?
気心の知れた友人といる時、或いは肉親、夫婦といった最も近い間柄の人達と一緒にいても、ふっ、と孤独感に襲われる事がある。目の前にいる友人、恋人、肉親がとても遠い存在のような錯覚を覚える一瞬・・・。その刹那的な孤独感の中には不思議な安らぎも含んでいる。それはたぶん自分という存在をもっとも確かに感じる瞬間でもあるからだろう。相手が遠く感じる、或いは自分自身が遠くに感じる瞬間、自分が広大な空間に一人で取り残されているような感覚を、多くの芸術は表現しようとして来ていると思う。そしてブラジルの音楽や映画「セントラル・ステーション」はそれを自然な形で表現している例だ。
そしてサラ・ヴォーンの声だ。
エラ、サラ、カーメンと並び賞されるジャズ・ヴォーカルの女王達の中で、僕自身はあまりサラ・ヴォーンを買っていなかった。何となくエラ・フィッツジェラルドの小粋さや、カーメン・マクレーのジャジーなアンニュイさに比べると、サラの歌はダイナミックな声とテクニックばかりが勝っているように聞こえたからだ。素晴らしくダイナミックでテクニカルでゴージャスだけど、それだけ・・・、申し訳ないけど心の中に滲みてくるようなものは感じなかった。
しかしサラ・ヴォーンがブラジルのものを取り上げ始めた時、その思いは変わった。何故か彼女の声がより生き生きと聞こえたのだ。そしてそこには「セントラル・ステーション」にあるような優しさを含んだ、雄大な空間が感じられた。
サラ・ヴォーンは自分のスタイルを確立した歌手だ。どんな曲でもすべて自分のものにしてしまうテクニック、説得力を持っている。ブラジルのものを歌う時もスタイルを変えている訳ではない。それでも歌の印象が変わって聞こえるのは、たぶん彼女の中にあるものとブラジルの曲の中にある感性のマッチングがいいのだろう。
1977年サラは初めてブラジルでレコーディングしている。「O Som Brasileiro de Sarah Vaughan」、後に「アイ・ラヴ・ブラジル」というタイトルで日本でも発売されたアルバムだ。ミルトン・ナシメント、トム・ジョビン、ドリヴァル・カイミといった豪華なブラジルのアーティストとの共演を楽しんでいるサラの姿がある。オリジナルのアルバム・ジャケットでは共演しているミュージシャン達だけでなく、様々なブラジルのアーティスト達がサラのレコーディングを覗きに来ている姿が数多くの写真に納められている。サラ自身もリラックスした姿で写っている。豪華で瑞々しい出会いを感じさせるアルバムだ。
そして2枚目の「コパカバーナ」(1979リオ録音)は「アイ・ラヴ・ブラジル」のサポートを務めていたブラジル人ギタリスト、エリオ・デルミーロをフィーチャーして作られたボサ・ノヴァを中心にしたアルバムだった。1枚目ほどの豪華さはないが、彼女がボサ・ノヴァにじっくりと取り組んだアルバムだ。 ジャズ・ヴォーカリストが英語で歌うボサ・ノヴァは、本家のポルトガル語で歌われるボサ・ノヴァとは違う、ノリのはまらない居心地悪さを感じるものが多い。それは言葉自体の持つリズムの差が大きな原因になっている、と思うが、それだけではなく、ボサ・ノヴァをアーティスティックなものではなく、おしゃれなイージー・リスニング的なものと軽視する傾向があるからだと思う。でもサラはどんな曲でも自分が歌うと決めた曲は正面から取り上げる。彼女の歌った力強いボサ・ノヴァはブラジルのものとはニュアンスは違うが、きっちりと自分のものにして、言語のリズムの違いなど一切感じさせないものだった。
そして本作「ブラジリアン・ロマンス」はサラのブラジル音楽集としては3作目になる。セルジオ・メンデスがプロデュースをつとめ今回はブラジルでなくアメリカで録音されている。パーソネルをご覧になればお分かり頂ける通り、ジョージ・デュークやヒューバート・ローズなどお馴染みの堅実なメンバーに囲まれてサラは楽々と歌っている。
このアルバムの特徴として挙げられるのは、先ずMPBの代表的アーティスト、ミルトン・ナシメントの参加だろう。1作目でもミルトンは参加していたが、その時はまだ、お互いにゲスト同士といった遠慮が感じられた。今回はミルトンの曲自体がアルバムのカラーを決めるほど影響を与えている。ミルトンの曲は1.3.6の三曲。3の「ラヴ・アンド・パッション」ではミルトン自身が歌でも参加している。
ボサ・ノヴァ以降の代表的な音楽ムーヴメントとしてMPBは始まった。先程か何度か登場しているMPBという言葉(エム・ぺー・べーと発音)はMusica Popular Brasileira、の略であり、ブラジル・ポピュラー音楽といった意味だが、単にポピュラーといった時に感じる軽さはなく、かなり高度でアーティスティックなものである。
ボサ・ノヴァがどちらかと言うと、普遍的な世界、スタンダードな志向だったのじ比べて、MPBはブラジル回帰といった志向が見られる。元はボサ・ノヴァの時代から活躍してきた人気歌手エリス・レジーナが若い作家達の作品を次々と取り上げヒットさせた事から始まった、とされているが、その多くはブラジルの土着のリズムやメロディーとロックなどの現代的な音楽とが結合したものだった。
ミルトン・ナシメントもMPBの流れの中で確固とした地位を作り上げてきたアーティストだが、中でも最も早くから世界に進出してきた一人だ。特にウエイン・ショーターの「ネイティヴ・ダンサー」(74)への参加は世界中に大きなインパクトを与えた。彼の雄大な作品は出身地であるブラジル内陸部の州、ミナス・ジェライスの豊かな自然、風を体現している。またその神秘的な声は世界中から「ブラジルの声」と賞賛されている。サラが彼女と同様「広大な」音楽世界を持つミルトンとの共演を希望したのは必然的な流れだったのだろう。
そしてこのアルバムで、2.5.7.8.10の5曲を提供し、アレンジとギターで参加している、ドリ・カイミもまたミルトンと同様にミナス派(僕は勝手に空間派と呼んでいる)のアーティストだ、彼はバイア出身の国民的アーティスト、ドリヴァル・カイミの長男であり、姉ナナ、弟ダニーロもブラジル音楽界の重鎮、といった音楽一家の生まれだ。父ドリヴァルがバイアの海をモチーフにして来たのに比べて、彼は内陸的な世界をモチーフにしているが、それは少年時代をミナスで過ごした事が影響しているのだろう。ブラジル以外での活動も多い彼だが、その音楽的風景はいささかも変わらない。ここでは聞けないが彼も広大で神秘的な声を持っている。
そしてプロデュースを担当したセルジオ・メンデスに関しては説明の必要もないだろう、「セルジオ・メンデス&ブラジル66」等で数々のボサ・ノヴァ曲を世界中にヒットさせ、広めた功績は大きい。一時ポップになりすぎた嫌いがあったが、その後またブラジルに回帰する姿勢を見せている。このアルバムもそういった流れの結果だろう。彼が提供している「ソー・メニー・スターズ」はサンバ・カンソンの秀曲だ。
このアルバムを聞いていると以前放浪した南米の大地の風景が浮かんでくる。そしてまた旅に出たいような気分が湧いてくる。