[大人のコラム]

 

※この掌編は'92『街角』 の中の「僕がサンバを作る時」という曲を作曲したとき、同時に書いたものです

    ジヴィーナの事        中村善郎

...Quando passo a noite naquele bar
Divina sempre ta ao lado de mim
Ela gosta de cantar com meu violao
Depois me da sorriso e beijinho...

…あのバールで夜を過ごす時は
ジヴィーナがいつも僕のそばにいる
彼女は僕の伴奏で歌うのが好きなんだ
そして僕にほほえみかけ、キスしてくれる…
(Quando faco samba / 僕がサンバを作るとき)

「ねえ、たばこ持ってる?」ジヴィーナが振り返って聞いた。
「いや、僕は吸わないから…」ジーンズのポケットに手を入れたまま僕は答えた。
「そう、そう言えば、あなたがたばこを吸っているところを見たこと無いわね」
そう言いながらジヴィーナは少し微笑んだ。でもその微笑みは何となく淋しげだった。
  ジヴィーナの瞳。それはいつも僕に子鹿を連想させる。大きな黒い瞳は驚きをもって世界を眺めまわすように見ひらかれ、つんっと澄まして上を向いた小さな鼻や薄く口紅を塗った唇も、やはり小鹿のように華奢なのだ。
  汐の香りのする風が吹き、彼女の長い髪が顔を覆った。髪を片手で押さえながら、ジヴィーナは又海の方を向いた。その姿はいつも“アバランダ”で見慣れた、勝ち気で男達の少々卑猥な冗談を平気でやり返す彼女とは違っていた。
  季節はずれの海岸。閑散とした道路を時々ワーゲンが物憂い音を立てて通り過ぎて行った。失われた記憶のように白々と太陽に照らされた道路に埃が舞い上がった。
  僕はジヴィーナと同じテーブルに座っていながら、遥か遠くにいる気がした。例えば僕と彼女は同じ場所に座っているのだが、彼女が座っているのは遥か昔、あるいは遥かに未来の事のようにずれているといった感じだろうか。どうしようもない隔たりが二人の間にあったことは確かだ。僕はただのエトランゼで、彼女の寂しさに触れることすら出来なかった。それはもう十年以上昔の話だ。

 “アバランダ”の事を思い出す時、最初に石畳の坂道が蘇って来る。その坂は結構急で雨の降る夜などは危うく滑りそうだった。入口はいつも開けっ放しで、そこから店の明かりが漏れ、ざわめきが坂の下からでも聞こえた。毎晩僕が入って行くとカウンターの中で主人のアゴストが大袈裟に両手を上げて迎えてくれた。そして仲間たちが僕にギターを渡し酒を奢ってくれた。百年前からそうしていたように僕らは歌い、飲み語り合って夜明けまで過ごすのだ。
  毎晩のように顔を合わせた人々。ショーロを弾かせると一番うまかったトゥニコン、マカロニ・ウエスタンの悪役のような容貌をしているのに、とてもセンチメンタルな唄が好きなカピタン、女性の中では一番ギターのうまかったマリーア、そして“アバランダ”の王様ジェトゥーリオ…。年令も職業も様々な人々がそこではただ歌うのが好きな、そして皆と飲むのが好きなだけの仲間だった。
  ある程度僕は言葉が分かるようになっていたけど、その国に生まれた人のようにすべてが自由になるわけではなかった。というより半分以上の言葉は頭を通り過ぎ、自分に分かる幾つかの言葉に僕は反応していただけだろう。今考えてみると自分が機嫌のいい犬みたいだったと思う。自分の名前が誰かの口から漏れたりすると、急に耳が反応し、それ以外の言葉は音楽のように通り過ぎて行く。僕がいつも上機嫌だったのは皆が奢ってくれるただ酒のせいばかりではなかった。僕は自分にとって心地よい情報だけを聞いて、後は自然に聞き流していたのだろう。でもディティールがはっきりしない分、より僕は人の感情の動きに敏感だったかもしれない。
  僕はいつもノートを持っていて、気に入った曲は必ず歌詞やコードを書いて貰って覚えた。皆面倒がらずに、かえって面白がって色んな唄を教えてくれた。そして何日かあと僕がその曲を歌ってみせると大袈裟に褒めてくれた。それも考えてみれば芸をする犬を可愛がるようなことだったのかも知れない。
  そしてジヴィーナとミシェル。僕は二人の事が好きだった。二人はいつも肩を並べて座り、それほどはしゃぎまわったりはしなかったけれど、楽しそうに飲んでいた。ミシェルは僕の好きな詩人ヴィニシウスの唄が得意でボサノヴァの名曲の数々を教えてくれた。ギターは余り上手ではなく、指盤をじっと見つめながらたどたどしいリズムで歌うのだが、それが中々味があった。僕に『サンバ・サラヴァ』を教えてくれたのは彼だ。何日かあと、練習の成果を見せるべく僕はミシェルや皆の前で『サンバ・サラヴァ』の初演をやってみせた。語りの部分が長くて覚えられないのでノートを見ながらの演奏だった。ブラジル人達にとって僕のような片言しか話せない日本人が、偉大な詩人の詩を読み上げたりするのが可笑しいらしく大受けした。でもミシェルだけは両手でしっかり僕の手を握り神妙な顔で、「とてもよかった。僕は嬉しい…」と言ってくれた。
  小柄で少しあさ黒い肌をしたジヴィーナ。彼女は少しハスキーな素敵な声をしていた。何曲か得意の曲があり、誰かがリクエストすると気軽に歌った。リズム感がとても良く大抵の歌い手が伴奏のリズムに乗って歌うのと違い、彼女は自分の歌でリズムをぐいぐいと引っ張って行く事ができた。時々はミシェルが伴奏して二人でデュエットをやったりしていた。二人の得意レパートリーの一曲は、バーデン・パウエルとやはりヴィニシウスの『プレリュードのサンバ』だった。ヴィニシウスを好きなミシェルらしい選曲。それはバロック音楽的な対位法を取り入れた曲で別々の二つのメロディーを男と女が歌い、最後にそれが絡み合って盛り上がるという、中々素敵な曲だ。この曲に関してはミシェルはギターを弾きたがらなくて、いつも僕が伴奏を受け持たされた。最初、ミシェルが低いパートのアルペジオのようなメロディーを歌い、その後流れるような高音部のメロディーを情感たっぷりにジヴィーナが歌う。そしてミシェルの合図で僕がワン・コーラス間奏を弾いた後、二人の絡みあいがあるわけだ。お互いにみつめあい、大げさに両手を広げて歌う二人の姿は日本人の僕には少し気恥ずかしかったが、皆は大まじめで結構盛り上がったものだ。
  何があってそうなったのか、僕にはまったく知る由もなかった。さっきも言った通り、大抵の会話は僕の頭上遥か高いところを過ぎていたのだから。僕には目の前に展開された事しか分からなかった。
  ある晩そんな二人が激しく喧嘩をした。珍しいくらい声を上げて罵りあう二人をアゴストやまわりの友人達が心配気に取りまきなだめていた。僕はその外側からおろおろしながら見守るだけだった。僕には早口に言い合う二人の言葉は一言も理解出来なかった。でも好きな二人が喧嘩をしている姿は僕には悲しかった。
  そしてその晩二人は別々に帰っていった。二人が帰った後店の雰囲気が一瞬落ち込んだけど、それもすぐに元通りになった。そんな風な事は“アバランダ”の中でそういつも起こる事ではなかったけれど、まったくないわけでもなかった。
  それからミシェルとジヴィーナは別々に現れるようになった。二人は会うと普通に挨拶を交わしていたが、以前のように仲良く一緒に座る事はなかったし、いつも別のグループの所で飲んでいた。まわりの皆は、そのうちまたよりが戻るよ、いった風で、別に二人に干渉したりはしなかった。でも二人がお互いにこっそりと様子を窺いあっていたのを僕は知っている。ただミシェルもジヴィーナも以前のように歌ったりしなくなり、ミシェルはもう僕にギターを教えてくれなかった。それが少し寂しかったけど、それでもそんな風なまま時間は過ぎて行った。時々二人の事を心配そうに見ている僕に気づいたアゴストは、
  「時は過ぎて行くもんさ……」
  と僕の肩をたたいた。
  そう、時は過ぎていく。そしてどんな事でも大抵は自分の考えた予想を裏切るものだ。
  僕はミシェルとジヴィーナがそのうちまた元のように仲良くデュエットをやったりするようになる日が来るものだと、何となく勝手に決めつけていた。そしてミシェルが僕にヴィニシウスの歌を教えてくれる日が遠からず戻って来ると思っていた。取り合えず二人は店に来ると別々のグループにいたけど、挨拶を交わしたりするとき、以前のような冷たさは消えていたし、短い間だけど二人だけで楽しそうに話し合っていたりした事があったからだ。
  しかしある夜、ミシェルはジョアーナという女の娘と出会った。二人は意気投合し大声で笑い合い、乾杯を重ねた。あの夜以降殆ど弾かなかったギターを取り、ミシェルはジョアーナの為にたどたどしいラブ・ソングを何曲も歌った。二人が肩を組んで仲良く帰って行った時、店の奥ではジヴィーナが肩を落として目に涙をうかべていた。僕自身もミシェルには物凄く腹が立ったし、ジヴィーナが可哀相でオロオロしたけど、僕には何も出来なかったし、何も言えなかった。それからミシェルは二度と“アバランダ”に姿を見せなかった。彼がどうしているのかはそれ以後知る事はなかった。でもそれも“アバランダ”では普通の事だった。毎日来ていた奴が突然来なくなったり、本当に久し振りに顔を出す奴がいたり…。誰もそんな事を気にはしない。来ればいつでも仲間だから…。
  ジヴィーナはそれでもよく“アバランダ”に来ていた。しばらくするとミシェルの事はふっ切れたらしく以前の快活さを取り戻し、また僕や他の誰かの伴奏でサンバを歌った。だけど急に黙ったりした時、肩の力が抜けとても寂しそうに見えた。そんな姿を見た時僕は自分でも気が付かない内に彼女を「明日海に行こう」と誘っていたのだ。
  ジヴィーナは僕の方を振り向いて寂しそうな笑みを浮かべた。僕はなんとなく落ち着かなくて、
  「いやならいいよ。僕一人でいくから…」
と言って誤魔化した。急にジヴィーナが大きな声を上げて笑った。そして
  「真冬に海に行っても何にもないわよ…。
でもいいわ、行きましょう…」
  と応えた。そうブラジルだってそれなりに寒い時は寒いのだ。

 僕とジヴィーナは歩き疲れてカフェ・テラスに座っていた。風はまだ肌寒いくらいだったけど、海の見えるテラスは気持ちがよかった。何だか一日中二人とも黙っていた気がした。僕はジヴィーナを誘った事を少し後悔していた。僕のようなエトランゼには彼女慰める事すら出来ない。第一、気のきいた言葉さえ口にする事が出来ないのだから。ジヴィーナはコーヒー・カップを手にしたまま遠くを見つめていた。僕はそんな彼女をなすすべもなく見つめていた。今ここにギターがあれば、ほんの少しくらい彼女を楽しくさせられるかな、と思いながら…。