秘 湯 幻 想
中村 善郎
傍にあるスタンドの紐を引くと電球の放つ光に、砂ずりの壁がおぼろ気に浮かび上がった。中に混じった金色の粒がほの暗い明かりに深みを増し、じっと見ていると深海にいるような静かな気分に包まれた。私は畳の上で腕まくらをして横になっていた。自分のしている時計の音が耳元でするぐらいであたりは静かだ。
山間の町らしく日が落ちてから暗くなるのが早かった。濃紺の空が開け放した窓に四角く切り取られて見えた。明るい星が一つだけ瞬きもしないで輝いていた。急に冷たい風が吹き込み、私は空いている方の手で丹前の襟をかき合わせた。
そろそろ窓を閉めないといけない、と思ったが立ち上がって行くのが面倒だった。私は腕まくらを外してごろりと仰向けになった。また風呂を浴びに行こうか、と考えていた。
「三階の部屋がいい」と言った時女将は、
「三階の部屋は狭いから他の部屋になさればいいのに…」と勧めた。しかし物珍しさもあって私はこの部屋を選んだ。季節外れの平日のせいで泊まり客は私しかいなかった。旅館はどっしりとした木造の建物で殆どの部分が二階建だった。三階にはこの部屋と、もう一つ向かい側に小さな部屋があるだけだ。三階は付け足しのような感じだ。あるいは従業員の為の部屋だったのかも知れない。
三階だと眺めがいいだろうと思ったが、古くからの温泉街の路地は狭く、軒を接して建っている旅館が目の前を塞いでいた。それでも私は落胆しなかった。ただこの静けさだけで満足だった。
「よいしょ…」と声を上げ私は立ち上がった。出窓に干してある手拭いはまだ湿っていた。一時間ほど前に風呂に入って来たばかりなのだ。丹前の合わせを直し、濡れた手拭いを肩に掛け私は部屋を出た。安っぽいビニールのスリッパを履き廊下や階段を歩くと、床がキュウキュウと音を立てた。
一階の帳場の前を通り掛かると女将が暖簾の向こうから顔を出し、
「お出掛けですか」と聞いた。
「いいえ、また一風呂浴びようと思って」と答えると、
「もうすぐお食事が出来ますから、早めに上がって下さい」と言われた。
「電気は消えてますけど、男湯でも女湯でも好きな方を自分で付けて下さい」
そう言いながら女将は暖簾の向こうの調理場に戻って行った。
この旅館の場合男湯も女湯もさほど広さは変わらなかった。ただ眺めは男湯の方が少し広々としていた。先刻は両方を試してみたのだが、今回は男湯の方だけに入るつもりだ。
明かりの消えた脱衣場に入り電気のスイッチを探した。それは脱衣篭の棚の手前にあった。二つ並んだスイッチの両方を入れると最初に風呂の中の明かりがつき、しばらくして脱衣場の蛍光灯が付いた。蛍光灯の色は目にうるさいので消した。
無造作に結んであった帯を解き浴衣と丹前を重ねたまま篭に突っ込むと、私はガラスの引き戸を開けた。温泉独特の柔らかな香りが押し寄せ、天井に溜まっていた湯気が雫になって肩に落ちた。
浴室の真ん中には瓢箪型をした湯船が切ってあり、まわりは年月を経て色褪せたタイルが張ってあった。正面には大きなアルミサッシの窓があり、それだけが真新しそうに輝いていた。先刻来た時はその向こうに山間の風景が広がっていたが、今は黒々と山の影が見えるだけだった。
私はぞんざいにかかり湯をすると、ゆっくりと湯船に身体を浸した。湯は透明で独特の滑らかな感触をしていた。脱衣場の壁にその効能や由来を書いた額があったが、私は読んでいなかった。まだ充分健康なわたしには、どのみちそういったものは必要ないだろう。
瓢箪のてっぺんの所に出湯口があり、そちらに行くに従って熱くなった。チョロチョロと間断なく続く湯の音がねむけをさそった。私は丁度真ん中辺りに止まり手足を伸ばした。
女湯との境の壁に金魚を入れた大きな水槽を嵌め込んであった。水槽のガラスは濃い緑色をした苔に被われ、金魚の姿が霧の中にいるように朧だった。反対側の壁には青と赤のカランが二つづつ並びその前に鏡が張ってあった。鏡の下の方にはそれぞれ褪せた金文字でその宿の名が書かれていた。鏡もタイルと同様かなりの年月を経ているらしく所々欠けたり錆びたりしていた。何となくその鏡を覗くと自分の年老いた姿が写っているような気がした。
湯船の淵を枕がわりにして頭を凭せ掛け、大きな欠伸をした。そして目を閉じて湯の感触を身体の隅々まで味わった。
頭から湯気を立て帳場の前にさしかかった時、階段の下にある仏壇のように厳かな柱時計が鳴りだした。夜を呼び入れるような音だった。緩慢なテンポで六回鐘の音がした後、カチッと歯車の噛む音がして止まった。
「お上がりになりましたか」女将が奥から出て来た。
「もうお食事の支度は出来ていますから」
そう言いながら女将は先に立って階段を上り始めた。急な階段を少し斜めに構え、トントンと慣れた足取りで上がって行く。その度に着物の裾から白い足袋が覗いた。二階に上がった所で立ち止まり女将が振り返った。
「すぐ御飯になさいますそれとも一、二本付けてからにしますか?」と聞くので、
「そうですね…」と言い淀んでいると、
「今日は他のお客さまもいらっしゃらないし、わざわざこんな日にお出掛け下さったのだからお酒はサービスさせて頂きますわ」と勧めた。
「じゃあ御馳走になりますか」と私は答えた。
女将は廊下の壁にある小さな引き戸を開けた。そこには五十センチ四方ぐらいの木箱と真鍮で出来た朝顔の花の形をした管があった。そしてその管に向かい、「トメさんお銚子をつけてくださいな」と少し怒鳴るように言った。
すると何処かでモーターの回る音がして箱がスルスルと下りていった。
「お部屋の方にいらっしゃって下さい。すぐにお持ちしますから」と女将は私を先に行かせた。
部屋に帰ると、天井から吊るしてある電灯のソケットの小さなつまみをまわし、明かりをつけた。乳白色のガラスの笠をつけた電灯の光は、弱々しく部屋を浮かび上がらせた。それは闇を駆逐するのではなく、闇と折り合いをつけ共存する優しい光りだった。大黒の木彫りを飾った床の間の前に小さな膳と座蒲団がしつらえてあった。また手拭いを出窓に吊るし、私は座蒲団の上にあぐらをかいて座った。少しして女将が盆に銚子と杯を乗せて入ってきた。私が崩していた足を正そうとすると、「どうぞ、お楽になさって下さい…」と女将が言った。
盆を置いて出ていくかと思っていたら、女将は私の脇に座り込み酌をし始めた。私は大いに恐縮しながら杯を受け取った。
「いや、すみません」と言うと、
「いいえ、どうせ今日は暇なものですから」と徳利を差し出した。
膳にはどこの温泉場にもあるような、山菜のひたしや鮎の塩焼き等が並んでいた。味の方も、可もなく不可もなく、とういう程度だったが、葉山葵の小鉢がきりりとした辛味で美味かった。電灯の頼り無げな光の下で、漆の器や古そうな焼きものの皿が、半ば闇に溶け微妙な色あいをつくっていた。そして女将の差し出す徳利と手がそれ自体発光するように白くぼんやりと浮かび上がった。私は女将と差し向かいという事で少々固くなっていたが女将の方は平気そうだった。
返杯を勧めると女将は「そうですか」と嬉しそうに受け取った。
杯を持った女将の手はむっちりと肉づきがよく、揃えた指先の爪が健康そうなピンクに輝いていた。杯を傾けた時、袂から真っ白な二の腕あたりが覗いた。私は訳もなく目を逸らした。
「ああ、美味しい」と言った時の女将の口許が意外とあどけなかった。三十代の半ばぐらいだろうか。しかしかなり若く見える。美人とは言えないが愛嬌のある親しみの湧く顔形をしている。ふっくらとした頬にほんのりと赤みがさし、薄く紅をひいた唇がしめりけを帯びて光った。少々太り気味だったが、それがかえって温泉旅館の女将という雰囲気に合っていた。
「東京の方ですか?」と女将が聞いた。
「そうです」と答えると、
「よくこんな田舎の温泉に来る気になりましたね」と言われた。
「学生の頃から温泉が好きだったんですよ、もっともあの頃は温泉が好きだなどというと一体お前は幾つなんだ、なんてからかわれましたけどね。前々からこちらには来てみたいと思っていたんですよ」
「へえ、それは年季が入っていらっしゃいますのね。私なんか学校の頃は、絶対に旅館を継ぐのが嫌で東京で働くつもりだったんですよ。でも、いつの間にかこうなってしまいましたけどね…」
そんな話をしながら杯をやりとりしている間に一本目が空いた。女将は何も言わないで立ち上がると階段を下りて行き、代わりの銚子をもって上がって来た。そして少し膝を崩し横座りに座ると、ゆったりとした腰の辺りが座蒲団の上で重そうだった。
「昨今は温泉ブームだから、こちらも忙しくなったでしょう?」そう聞くと、
「いえ、白都温泉が近いし、普通のお客さんはそちらに行ってしまわれるので、ここは昔と変わりませんよ。相変わらずお馴染みさんばかりです」と答えた。
「ああ、そうだわ」女将は急に思いついたように声を上げた。
「神社の向こう側の滝の前に露天の風呂があるんです。あまり湯量が多くなかったので小さな湯船を作っただけでそのままになっていますけど、時々町の人が入ったりしているんですよ。そんなに温泉がお好きでしたら、行ってみられたらいかがですか?よかったらうちの者に案内させますよ…」
滝の側の露天風呂と聞いて私は興味を引かれた。元々秘湯と呼ばれるような人里離れた温泉が好きで色々な本などで研究はしていたが、この温泉場にそんな物があることは知らなかった。
「ええ是非おねがいします」と私は答えた。
二本目の徳利が空く頃には女将の目が薄赤く潤んでいた。そしてフーッと暑そうな溜め息をつき襟元を少し寛がせた。小首をかしげうなじの辺りの髪の乱れを直した時、髷に刺した柘植のかんざしが落ちた。それを拾おうとして女将と私の手が重なりあった。女将の手が熱く湿り気を帯びていた。私が手を引こうとすると女将がそれを止めるかのように微かに力を入れた。
酔いで気だるくなった身体には何段も続く石段がきつかった。私が立ち止まって休むと先を行く女将の妹も立ち止まり振り返った。
「少し休みましょうか?」と彼女は聞いたが、
「いや大丈夫です」と私は答え、歩きづらい下駄の歩を進めた。
出てくる時、靴を履いた方がいいと言われたのだが、丹前に靴は合わないから、と断ってしまったのだ。その事を少し後悔した。
案内をかって出てくれたのは女将の妹で奈美という名だった。姉よりは痩せていて背が高かった。目元口元が姉によく似ていたが、奈美の方がはっきりとした美形だった。若さがそこに輝きを与えていた。二十七才だと言っていたが、二十前後にしか見えなかった。ショート・カットにした髪がそう見せるのかも知れない。そして姉の日本的なたたずまいに対して彼女の方は現代的な快活さに溢れていた。奈美は体操選手の着るようなジャージを着て、軽そうなスニーカーを履いていた。その軽やかな足取りが羨ましかった。
色褪せた鳥居が幾つも石の階段を覆い、繋がって立っていた。
出てくる時、女将が懐中電灯を持たせようと探してくれたが、すぐには見つからなかった。奈美の方は、
「大丈夫よ慣れてるから」とじれったそうに言ったが、
女将は、
「これでも役に立つかも知れないから」と蝋燭を持ってきた。
しかし蝋燭は何度点けても僅かな風に立ち消えてしまい、奈美はそれをポケットに仕舞い込んでしまった。
自分で言った通り慣れているらしく、奈美は易々と階段を登って行った。それに満月に近い月明かりが思ったよりも明るく、風に揺れる木立や鳥居の影が地面にはっきりと映っていた。
「東京からいらっしゃったんですってね?」歩きながら奈美が聞いた。姉も彼女も綺麗な標準語で話したが、その中に微かな訛があった。それが温かみを感じさせた。
「ええ、そうです」私は答えた。
「私も今年の初めまでは東京にいたんですよ」奈美は少し懐かしそうに言った。
「東京の大学に行ってたんです。それに就職先も丸の内だったもので…」
私が「どの辺りに住んでいたのですか?」と聞くと、意外と私の住んでいる所に近い住所を言った。まったく、おたがいに顔を合わせていてもおかしくないぐらいの近さだ。
「あの坂の商店街の豆腐屋を知ってますか?」と聞くと、
「ええ、あそこはとても美味しいから、仕事が早く終わった時や、土曜日には何時も買いに行ってましたわ」と目を輝かせた。
それからしばらくはお互いに住んでいた町の様子などを話しながら歩いた。私が最近引っ越したり、代変わりしてしまった店の事を話すと、「そうですか」と遠くを見るような目付きで頷いた。
来年結婚する事が決まっている、と奈美が言った。相手はやはり隣の沢神温泉で旅館をやっている家の長男だということだ。姉の所の手伝いをして、旅館の仕事に慣れておく為に少し早めに帰ってきているということだった。
「もう少し東京に居たかったんですけどね。私なんか生まれてから高校を出るまで、ここで手伝いをしていたんだから、今更覚える事なんかないんですけどね…」と少し不満そうだった。
かなりの数の石段を登った所で神社の境内に出た。振り返って見ると温泉街の明かりが意外な程華奢に佇んでいた。ひときわ大きな鳥居の下に狛犬の変わりに狐が座っていた。薄暗い闇の中で見るとその狐が息づいているような、今にも歩きだしそうな実感を持っていた。お社の前に二本の電柱が並び、そこから電灯が頼り無げな光を投げ掛けていた。奈美は足早にその前に行くと鈴を鳴らし柏手を打って頭を下げた。その仕種がとても自然だった。この神社にお参りすることが、日常の一部になっているのだろう。
そして「こっちです」と手まねきをしながらお社の裏に廻って行った。
森が一層深くなった。枯れ葉が落ちて堆肥のようになっているらしく、地面は柔らかかった。石段を歩く時鋭い音を立てていた下駄が黙った。木々や背の高い雑草に囲まれた小道を奈美はかきわけて行った。するとすぐに小さな川の傍にでた。
「川の水に触ってごらんなさい」と奈美が言うので私はしゃがみこんで手を浸した。切れるように冷たい山の水を想像したが意外と生温かった。
「温泉が混じっているんですよ」と奈美が説明してくれた。
川に沿って続く急な坂道は道幅が狭く、二人並ぶ事が出来ないので、私は奈美の後ろについて歩いた。風が吹くとさわさわと周りの木々や草が葉を鳴らした。月明かりの下ではそれが不気味に聞こえたが、奈美は平気そうだった。道を登っている内に汗をかいたりしたので先刻の酒気が抜け、少し気分がしゃっきりとしてきた。やがて向こうから、ゴーッという音が聞こえてきた。
奈美が振り返り、「もうすぐです…」と言った。
小さな丸木橋を渡るとすぐに、少し広く平らな所に出た。目の前には五メートルぐらいの高さの滝があった。水の量は豊富でそれが豪快な音を立てていた。辺り一体にその飛沫が霧のように漂っていた。奈美は構わず滝の方に歩いて行った。すると深い闇に淀んだ滝壷の、すぐ手前の川原に湯船があった。それはただ三メートル四方ぐらいの正方形にコンクリートを固めただけの簡単なものだった。その辺りだけ滝の飛沫とは違う濃密な湯気があがっていた。簡単なビニールのホースの出湯口からは間断なく湯が落ちていた。
「私は後ろを向いていますから、どうぞ入って下さい」と奈美が言った。
そして二、三歩離れると川下の方を向いた。脱いだ物を置く場所がないので迷ったが、すぐ側の木の枝に掛ける事にした。私は奈美に背を向け帯を解いた。浴衣の便利なのはこういう時だ。裸になると夜気に滝の飛沫が混じって冷たかった。私は腕をぶるぶる振るわせながら湯船に走った。手拭いを湯に浸し身体に当てると、冷えた肌には熱すぎる気がしたが、構わず私は飛び込んだ。一瞬湯の熱さに手足の爪が剥がれるような感じがして、すぐにそれは収まった。湯船の深さは、しゃがむと首までつかるぐらいに丁度よかった。慣pれてみると湯の温度はほどよく、身体の緊張がほぐれた。空を見上げると明るい月が真上に来ていた。素晴らしい気分だ。私は手足を思い切り伸ばした。
「少し向こうを向いててください」と言う声がしたので私は滝の方を向いた。するとちゃぷちゃぷと湯を掻き混ぜる音がした後、驚いた事に奈美が入って来た。案内をしてもらうだけで一緒に湯に入るなどとは思ってもいなかった私は少し慌てた。
「もういいですわ」と言う言葉に私は振り返ったが湯船の反対の壁に背中をあずけたままだった。湯の下に身体を隠してしまうと平気らしく、奈美は私に微笑みかけた。月の光を浴びてその笑顔が透き通るほどに青白く輝いた。奈美は両手で湯をすくい顔を拭った。湯の下で裸身がほの白く燐光を放っていた。真っ直ぐに伸ばした足が私の足に触りそうだった。
「子供の頃よくここに来たんです」奈美は懐かしそうにそう言った。
「夏は滝壷で泳いだ後このお風呂に入ったり、秋は木の実取りとか春は摘み草とか、とにかく一年中山に来てはここで一風呂浴びて帰るんです」
私は先刻の神社を御参りする時の奈美の仕種がとても自然だったことを思い出した。やはり彼女達にとってはこの山全体が生活と結び付いていたのだ。
「冬でも身体が温ったまると裸のまま雪の中を走り回ったりましたわ。男の子も女の子も一緒にね…。
昔はとても広い湯船だと思っていましたけど、今入ってみると結構狭いですね…」
奈美の声を気だるく聞きながら私は空を見上げた。真上にあった月が何時の間にか山影にかかるところまで来ていた。星が一杯に広がっていた。
「今夜はその頃の名残というわけですか?」
私がそう聞くと、しばらく黙っていた後、
「いえ…、
あなたのような人とだったら入ってみたいと思ったんです」と答えた。
私が奈美の方を向くと湯気と闇にかすんではいたが、彼女がじっと私を見つめているのが分かった。奈美は微笑んでいなかった。私の胸に熱い物が突き上げた。私は戸惑った。
急に奈美が唇にひとさし指をあて、音を立てないようにゆっくりと私の側に這い進んできた。そして私と並ぶと黙ったまま滝壷の側の茂みを指さした。奈美が何を差しているのかすぐには分からなかったが、じっと目を凝らしていると、最初に小さな宝石のような二つの点が見えた。それは暗い茂みの中から私達の方を伺っている狐の目だった。
「お客さんかも知れないわね」奈美が小声でそう言った。
「ええ?」と私が聞き返すと、
「山の動物たちも時々この風呂に入りにくるんですよ」と言った。
奈美の右腕が私の左腕に触れていた。その肌はしっとりとした柔らかさを秘め意外な程熱かった。狐は湯に入る事を諦めたのか、踊るような仕種で振り返ると微かな葉音を立てて茂みの中に姿を消した。
奈美が湯船の淵に両腕を重ね顎をその上に凭せ掛け、身体を真っ直ぐに伸ばした。浮力で背中から尻の辺りまでが湯の上に出た。砂丘のように脆そうな、それでいてしたたかな曲線が眩しかった。泳ぐように足を蹴ると、波紋がゆっくりと広がった。奈美が顔をこちらに向けると湯の上に寝そべっているように見えた。
「あそこはまだ元のままかしら?」物思いに耽るように奈美が呟いた。大きな瞳が急に輝きを増した。そしていたずらっぽく微笑み、
「一緒に行ってみませんか?」と聞いた。
「どこへ?」何の事を言っているのか分からず私は聞いた。
「誰も知らない洞窟があるんです、子供の頃に行った事があるだけで、今どうなっているか分からないけど、もしかしたらそのままかも知れないわ」
そう言いながら奈美は滝の方を見た。
「ちょっと冷たいかも知れないけど、
大丈夫よ、またここで温まって行けばいいんだから」そう言って私を見つめる奈美の表情には子供のような無邪気さが漂っていた。
私も滝の方を見た。豪快な音を立て、飛沫を上げて落ちる水以外は見えなかった。でも心を躍らせる何かがあった。
「行きましょう…」
そう答えた時、ささやかな冒険に心を熱くする少年のような気分がした。
じゃあ、と言って奈美は立ち上がった。覆うもののない裸身が月に映えた。豊かな胸や指先から湯が滴り落ちた。全身から湯気を立て朧に見える姿は妖精のようだ。奈美が右手を差し出し私の腕をつかんで立たせてくれた。そして先に立って滝壷の脇の道を裸のまま走って行った。私もその後に続いた。奈美の尻が重そうに揺れていた。彼女の白い肌の中で泥に汚れた足の裏だけが黒く躍動していた。二人は滝に近づき水の落ちる様を横から見る恰好になった。
岩肌が壁になって行き止まりになった。もうその先に道はなく岩壁に羊歯や雑木が生えているだけだ。奈美は片手でその岩を頼りながらゆっくりと滝壷の水の中に下り始めた。そして腰の辺りまで水に隠れると、一度私の方を振り返った後、中央に向かって泳ぎ始めた。私は水の冷たさを思い一瞬躊躇したがすぐ後に続いた。温泉で温まった身体に滝壷の水は冷たかったが、想像したほどではなかった。ここにも温泉の湯が流れ込んでいるのかも知れない。奈美は滝の真下にむかって泳いで行った。今や水音は耳を聾するばかりだった。あるいはそれは闖入者を拒む滝の声だったのかも知れない。
滝の水の落ちる真ん前で奈美は立ち泳ぎの恰好で待っていた。叫ぶように何か言ったが水の音に消されて聞こえなかった。傍まで行くと奈美が腕を出して私を引き寄せた。するとそこだけ水の流れがより温かくなっていた。私が驚くと奈美は嬉しそうに微笑みながら頷いた。奈美がまた何か言ったが聞こえなかった。私が、聞こえない、と首を振ると奈美は私の肩を抱き寄せた。私の左腕が奈美の腰を抱く恰好になり二人の身体が触れ合った。
乳房が水の流れに揺れながら私の脇腹を擦り、水を蹴る彼女のももが私の腰の辺りにぶつかった。奈美は私の耳元に顔を近づけ
「滝の裏側なんです」と叫んだ。
そして、つっと私から離れると滝の真っただ中に向かって泳ぎ始めた。一瞬落ちてくる水の重みに奈美の頭が水中に没した後、かき消すように姿が見えなくなった。私はおそるおそるその後に続いた。砂の入った袋を叩きつけるように水が落ちてきて、その重みで私の頭は水中に潜ってしまった。滝の水は冷たかった。私は少々恐慌をきたし水の中でもがいた。しかしすぐに私の頭は滝の裏側の水面に出た。水の流れがより温かくなった。この辺りが温泉の流れ込む口のようだ。奈美の姿が見えなかった。どこに消えたのかと見回していると、目の前の岩陰から、
「ここです!」という声が聞こえてきた。
滝の裏に廻ると落ちてくる水に反響するのか、その声が洞窟の中のようによく響いた。声のする方に振り向くと高さが五十センチぐらいの窪みがあった。私が近づいて行くとその窪みの暗がりの中に奈美の顔が白く浮かび上がっていた。私は彼女の傍に行った。奈美
が、ふふふっ、と楽しそうな笑い声を上げるとそれが狭い穴の中で反響した。
「もうすぐですよ」と奈美が言った。
私は暗い穴の中を見回したが周りは露な岩肌があるだけでもうどこにも行けそうになかった。怪訝そうな私の顔を見て奈美は微笑んだ。そして大きく息を吸う仕種をして私に頷きかけた。私が大きく深呼吸をすると奈美は私の手を取り水の中に潜った。
奈美の手の導くのを頼りについて行くと、水面下五十センチぐらいの所に人が一人やっと通れるぐらいの穴が開いていた。奈美は手を放してその穴に入っていった。私も後に続き真っ暗な水を掻いて穴に入って行った。一瞬、閉所恐怖症に陥ったように心臓が高鳴った。そして穴をくぐり抜け慌てて水面に顔を出すと、そこは天井の高さが三メートルぐら
いの細長い洞窟になっていた。岩肌が様々な凹凸を作って迫っり、そのあちらこちらがボーッと燐光を放っていた。そのせいで洞窟全体がほの明るく見わたせた。洞窟は奥に行くに従って幅を狭めながら続いていたが、湯はその奥の方から流れ込んでいるようだった。かなりの湯量があるらしくその流れに私の身体が軽く押し戻されるぐらいだった。
一緒に手を取り合い泳ぎながら進んで行くとすぐに足が底についた。そして奥に向かって歩いて行くに従って底が浅くなってきた。洞窟の中の湯は滝壷の前の露天風呂より温く感じた。腰ぐらいの深さになった所で私達はしゃがみ込み、滝の水の冷たさから回復するのを待った。私が側の岩肌の燐光を放っている所に手を伸ばすと、
「光苔ですよ」と奈美が教えてくれた。
そして立ち上がって光苔を手に取ると、それを自分の胸になすりつけた。宝石のペンダントのように裸の胸の上でそれが光った。
湯気は盛んに立っているのに、それが洞窟の中に溜まる事はなかった。それに時々、スーッと冷たい風が通りすぎる事を考えると、何処かに風の抜ける穴があるらしかった。
「温まりました?」と奈美が聞いた。
「うん」私は答えた。
「面白いでしょう?」と奈美は微笑みかけた。
私は興奮した気分で洞窟を眺め回した。素晴らしい光景だった。悠久の闇に抱かれていると、洞窟の外に文明世界があることを想像するのが難しかった。湯の温かさが私の身体にその闇を染み込ませ、私は太古の洞窟の一部になった。目を閉じると宇宙のただ中に漂うような気がした。
奈美が手を伸ばし私の手を握った。私は目を閉じたままその手を握り返した。
「まだ奥があるんですよ」奈美がそう言った。
「行ってみますか?」
私は目をあけると黙って頷き立ち上がった。
私はもう裸である事のきまり悪さを忘れていた。この洞窟の中では、その方が自然だった。奈美の手に導かれて歩いて行くと段々湯が浅くなり膝下ぐらいの深さになった。その分流れは急になった。岩肌に点々と光り苔があるせいで全くの闇になる事はなかったが、光苔が緩慢に明滅するのに従って岩壁が揺れて見えた。まるで巨大な動物の体内を行くような気分だった。奈美は私の手を放さず、真っ直ぐ奥に向かって歩いて行った。天井や壁の岩が私達を押し潰すように迫った。
少し道が広がって来たところで奈美がふっと立ち止まり振り返った。
「今度はあなたが先を行ってください」と奈美が言った。
私は頷き奈美に代わって前に出た。そして一、二歩行った途端急に底が無くなり、私は深みに落ち込んで潜ってしまった。湯の上に顔を出し見上げると奈美が楽しそうに笑って
いた。
「知ってたんだね」
私は飛び上がって足首をつかみ奈美を深みに落とした。奈美が笑いながら湯の上に顔を出した。湯を飲んだらしく少し咳込んでいた。それでも奈美は両手で顔を拭いながら笑っていた。その声が岩に反射して奈美が何人もいるように響いた。
急に奈美が私の首に抱きついてきた。私は一瞬湯の中に潜りながらその身体を抱き止めた。奈美が唇を重ねてきた。私は奈美の身体をしっかりと抱くとそれに応えた。密着した胸から心臓の鼓動が伝わった。興奮に鼓動の音は高鳴っていた。それに同調するように私の鼓動も高まっていた。奈美が顔を離し私を見つめた。私は彼女の顔の前を濡れて覆っている髪をかきあげてやった。
奈美がはにかむように微笑み、
「楽しいですか?」と聞いた。
私が頷くと「わたしも」と掠れた声で言った。
ゆっくりと身体を放し奈美はさらに奥に向かって泳ぎ始めた。
先に行くに従って左右の壁も天井もより迫って来た。それはまるで巨大な鉛筆の内側を通るようだった。下手なナイフで削った凸凹だらけの鉛筆。今や顔を湯の上に上げているのが困難な程天井の岩肌が低くなって来た。奈美はその岩壁に手をついて身体を押し出しながらそれでも前に進んだ。湯の流れが更に急になり私達を押し戻そうとした。
そして鉛筆の先端のような小さな穴を抜けた途端私達は広大なドームの中に出ていた。直径五十メートルぐらいの湯の湖の上に、岩壁が回教寺院の内部のような綺麗な球形を描いているのだ。その壁中のあちらこちらで光苔が輝き、星座模様を描いてドーム全体をボーッと明るくしていた。そして奥の左の方の壁から湯が小さな滝になって落ちているのが見えた。湯の流れはもう私達を押し戻そうとはしなかった。湯は透明で光り苔の明かりでも私達の足の下ぐらいまで見通せたが、その下は真っ暗で分からなかった。私は息を呑みあたりを見回した。奈美が一際大きな声を上げて笑い出した。私もつられて笑い出した。
急に笑うのを止めると、奈美は黙って私を見つめた。
そして「わたしを抱いて」と囁いた。
私が手を伸ばし触れようとすると、奈美はその手を逃れて湖の真ん中に向かって泳ぎ始めた。私はその後に続いた。奈美の足が軽い湯の飛沫を上げた。彼女のクロールは滑らかで早かった。背中から肩にかけての筋肉が躍動するのが見えた。私も本気で後を追ったが中々追いつけなかった。奈美は滝の方に向かっていた。見るとその側の水面の僅か上に平らな岩棚があるのだ。奈美はそこを目指しているらしかった。
私に二メートルぐらいの差を開けて奈美はその岩棚に辿り着いた。そして両手をその上に乗せると一気に身体を持ち上げた。背中から尻の辺りまでが湯の上に出て止まった。湯にあたって柔らかくなった肌が眩しかった。奈美は一瞬の内に岩の窪み足を掛けその上にあがって行った。そして奈美の身体が岩の中に溶け込むように消えた。
すぐに私も手を掛け岩棚に駆け上がった。しかしそこに奈美の姿はなかった。目の前はもうドームの壁が迫り行き止まりになっているだけだ。
「奈美さん」
私はまた彼女が何処かに隠れているのだと思い彼女の名を呼んだ。私の声がドームの中で虚しく響きわたるだけで返事はなかった。
「奈美さん…!」もう一度もう少し大きな声で呼んで見た。やはり側の滝の音以外何もなかった。
急にドームの壁を覆っていた光苔がその光りを失い始めた。生命の終わりのように緩やかにそれは消え、私は完全な闇の中に取り残された。
「奈美さん…!
奈美さーん!
奈美さぁぁぁぁ−ん」
私は何度も叫んだ。
暗闇の中から手が伸びてきて私の肩をつかんだ。驚いて私が振り返ると、明るい光りが刺すように飛び込み私は目をつぶった。眩しい光りに目が慣れると、そこには女将が心配そうに私を覗き込んでいた。驚いた事に私は旅館の瓢箪型の風呂にいた。
「叫び声がするので見に来たんですよ」と女将はまだ心配そうな顔で言った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です」私は慌てて答えた。
「風呂に入ったまま眠ったりすると溺れてしまいますよ」と女将は真顔で言った。
「大丈夫ですよ、僕は泳げますから」と私が冗談めかして答えると、
「だったらいいですけど…」と女将が立ち上がった。
でもその表情はまだ心配そうだった。
「お食事の支度が出来ていますからもう上がって下さい」と言いながら女将が風呂場から出ていった。
私は今見た不思議な夢の事を考えながら湯船からあがると、手拭いで身体を拭いた。あまりに現実的な夢だった。私の耳には奈美の声が響き、身体には奈美の肌の感触がまだ残っていた。私は夢を拭い去るように冷たい水に浸し固く絞った手拭いで身体を擦った。そして立ち上がった時、風呂の入口に立っている女将に気がついた。
女将は私が裸のでいる事に気がつきもしないような顔で言った。
「どうして私の妹の名を御存知なのですか?」
「ええ?」と私が聞き返すと、
「奈美ですよ、私の妹は奈美と言うんです」
「あなたがそう叫んでいらっしゃるので、びっくりしましたわ」
私がぼんやりと黙っていると、
「奈美は死んだんです…」と女将が言った。
「交通事故でした。今年の初め結婚が決まってこちらに帰って来る途中でしたわ」
女将の顔は真剣で青ざめていた。