OUT THERE vol.5に掲載されたものです
ジェトゥーリオの話
セン・ノーメ(名無し)という名のバールはサン・パウロの街の片隅にあった。偶然その店に入り込んだ僕は、そこを中心にしてブラジルの音楽のある意味では底辺の部分を彷徨い、学んだ。夜毎集まるボヘミアン達は飽きもせず、一本のギターを廻していろんな曲を弾いていた。そして訳の分からない日本人の僕にもギターの手ほどきをしてくれた。ジェトゥーリオという大男はその中でも僕を一番可愛がってくれ、いろんな曲を教えてくれた。もう20年以上前の話だ。
「ナカジーニョ…!」
よく響く胴間声が僕のあだ名を呼んだ。
「よう、元気だったか?」
そして、ジェトゥーリオは大きな犬のように太い毛むくじゃらの腕で僕を羽交い締めにし、背中をどんどんとどやしつけた。危うく僕のショッピ(生ビール)がこぼれそうになった。
元気だったか?だって、昨日の夜一緒に飲んだばっかりじゃないか。そう思いながらも僕は大袈裟な挨拶に笑顔で応えた。まだ宵の口だと言うのにジェトゥーリオはもう酔っぱらっていて、栗色の目の焦点が怪しかった。
「アー、ハッハッハッ…」彼独特のダイナミックな笑い声を上げた後、次に来る言葉は決まっている。
「お前は本当にブラジル人みたいな日本人だ!」
ジェトゥーリオが耳元で胴間声を上げるのに合わせて、僕もうんざりとした気分で一緒に呟いた。
「アゴースト!」
ジェトゥーリオは僕の肩を丸太のような腕で抱えながら、この小さなバール(酒場)の主人の名を呼んだ。
「何だい?」アゴストは下を向いて仕事を続けながら面倒臭そうに返事した。彼にもジェトゥーリオが次に何を言うか分かっているのだ。
「こいつは日本人のくせに、サンバを弾くんだぜ」
アゴストも多分一緒になって呟いているのだろう、片方の眉を一寸上げて肩をすくめて見せた。
「おい、ギターだ!」
ジェトゥーリオはアルバイトのジョアンを呼びつけた。ジョアンは壁に掛かっている疵だらけのギターをとってジェトゥーリオに渡した。ジェトゥーリオはそれを僕の胸に押しつけた。
「ほら、なんかやってみろ!」
僕はギターを膝に乗せて、とにかくチューニングを始めた。弦巻きが錆ついていて、廻すのに殆ど渾身の力が必要だった。おんぼろな楽器はどうやったって合わないのだが、とにかく納得出来る程度まで合わせたところで、僕はジョビンの曲を弾き始めた。
実を言うとその夜はジェトゥーリオに会うのが楽しみだった。僕は新しい曲を覚えたばかりで、ちょっと自慢したかったのだ。
『ESTE SEU OLHAR QUANDO ENCONTRA O MEU・・・』 (君の視線が僕の視線と重なるとき・・・)
時々、覚えたての歌詞がどこかに行ってしまいそうになるのを、なんとか間違えないで僕は最後まで歌った。
「お前! 本当に・・・・・・!
へ、た、く、そーーーだな!」
そうだ、いつもこの一言がぐさっと僕の胸を抉るのだ。今夜こそはとにかく褒め言葉が聞けるかとおもっていたのに・・・。
「貸してみろ!」ジェトゥーリオは乱暴にギターをひったくり、また今夜も僕がやったばかりの曲を弾き始めた。
一本一本がたらこのような指をしているのに、それを器用に操ってイントロを弾きジェトゥーリオは歌い始めた。
反対側のすみっこでだれかと話していたルシアーナがこっちに寄って来た。アゴストもジョアンも仕事の手を止めてジェトゥーリオの唄に耳を傾けた。ジェトゥーリオの唄は確かにとても魅力的だった。酔っぱらっていて音程もかなり怪しいのに、しゃべる時はただやかましい胴間声が歌いだすと嘘のように優しくなる。そして柔らかなサンバのリズムに乗って、直接心に染み込ませるように歌う。
決してうまい唄という訳ではないのに・・・。
えいっ、くそっ・・・。
そうやって僕はまた一晩中ジェトゥーリオと飲み明かす事になってしまうのだ・・・。