ミュージシャン冗談ショート・ショート・シリーズ
日頃おつき合い頂いているミュージシャンの方々を題材にしたショート・ショートの中から
好評を頂いたものを掲載しました。みなさんすみません、怒らないでね
○ドラムのタマさん
○ピアノの一子さん
○ヴァイブの出口さん
○サックスの宮野さん
ド ラ ム の 、 タ マ さ ん
「ナカジーニョ、今日は仕事ないんだろう?」タマさんが聞いた。
「うん、ないよ」僕はタマさんの運転する車の助手席に座っていた。名古屋から東名に乗って帰るところだった。
「じゃ、今日は時間に余裕があるから遠回りして飯でも食って行かない?
浜名湖インターで降りてすぐの所にとっても景色のいいレストランがあるんだ。そこで食べてその先のインターでまた東名に乗ればいいだろう」
二人は名古屋のお医者さんの家のパーティから帰るところだった。その家は旦那さんも奥さんも料理上手で、年に何回か友達を集めてパーティを開いて、自分達の作った物を出した。それが普段忙しい彼らの息抜きになっていたようだ。僕らはそこでちょっと演奏するだけで、美味しいものを頂いて一泊とめてもらうというわけだ。
別に仕事じゃないけど、年に一、二回のパーティが何となく楽しみになっていた。前回来た時もタマさんはそのレストランで食べて行こうと言ったのだけど、二人とも夜仕事が入っていたので果たせなかった。今回は時間もあるし、どうせそのまま行っても殺風景なサービス・エリアの不味い飯を食う事になってしまうのだから、そっちの方がいいに決まっている。
浜名湖のインターで下りてしばらく国道を行ったあと、細い道に入りすぐに目的のレストランについた。ガラス張の大きな窓から浜名湖が広々と見えた。秋の午後の日差しが眩しいくらいだった。ゆったりと座り心地のいい椅子に座り、ビールを一本だけ注文して二人で分け、ランチ・メニューで適当なものを頼んだ。タマさんが勧めるだけあって中々美味しかった。とにかくサービスエリアの食事とは比べ物にならない。
珈琲を頼んでしばらくゆっくりして、ビールの酔いを覚ました。普通だと食後の一服というところだろうけど二人とも煙草は吸わない。僕らは黙ったまま雄大な浜名湖の上をモーターボートが行き交うのを見ていた。ぽっかりと空中に浮かんだ風船のように何でもない時間だった。レストランの中に下手なBGMが流れてないのもありがたかった。
お腹も心も満足したし、ビールの酔いも覚めたところで出発する事にした。
「地図で見つけただけで行った事はないけど、おもしろそうな道があるんだ。
山の中を走るので、もしかしたらちょっとやばいかも知れないけど、それで行くと三つぐらい先のインターに出られるんだ。
それにほとんど真っ直ぐに突っ切って行くようになるから、うまく行けば時間も稼げそうなんだけど、それ、行ってみる?」
タマさんは運転席のシートベルトを締めながらそう聞いた。一応疑問文で聞いているけどそれはほとんど決定事項みたいなものだ。
「東名なんか走ってても退屈なだけだから、そっちを行ってみようよ」僕は頷いた。
「二、三箇所曲がる所があるから地図でみててね」
タマさんはそう言うと車をスタートさせた。
少し東名の方に戻った後、二股になっている道を東名とは反対に曲がって行った。しばらく行くとアスファルトが切れて砂利道になった。細い道の両脇には背の高い雑草が迫って生えていた。そしてその向こうには、痩せこけた雑木林が絡みあうあって続いていた。しばらく雨が降っていないせいか、ひどく埃っぽく見えた。
「こういう道にはなんたって四輪駆動の威力が出るんだぜ」
そう言いながらタマさんは楽しそうに運転していた。
「もうすぐ右に折れる道があるはずだけど、分かるかな?」
僕は地図と距離メーターを眺めながら言った。すぐに僕が言った通り右に曲がる道が見えて来た。なんの標識も立っていなかったけれど距離的に見てそれが目指す道らしい。
乾いた砂埃を上げ車はその道に入った。少しの間貧相な雑木林がなくなって両側一面のすすきの原になった。
「これを五、六キロ行った所で、県道に出るんだけど、県道は舗装してあるみたいだからすぐに分かると思う。県道を二キロくらい行ったら又林道に入ってずっと真っ直ぐ行けば、国道に出てそこから東名のインターに繋がっている」
僕は地図の先を読みながら言った。
「たまにはこういう道を走るのも面白いね。仕事で都内ばかり走っていると、嫌になるもんね」タマさんは上機嫌だった。
僕が一面の枯れて乾ききったすすきを見ながら
「こんなの簡単に火が付きそうだね。
山火事なんかなったりしたらどうするんだろう」と言ったら、
タマさんは「あとはテニス・コートにすればいいんだ」と勝手な事を言った。
すれちがう車も人も全然なかった。二人はちょっとした冒険に興奮していた。最近聞いたレコードの話や友達の噂をしながら走っていたけど、興奮しているせいかちょっとした下らない冗談を言い合っても笑いころげる始末だった。日常的な風景から離れる事で自分の中の生な部分がより表に出て来ているみたいだ。東名を真面目に走って帰ったりしていたら、こんな気分は味わえなかっただろ。
でも、天気が崩れていくのに従って僕らは不機嫌になっていった。嘘のように晴れていた空にいつの間にか真っ黒な雲が沸き起こり、空一面を被った。道も段々山に入って行くせいで木々が迫り視界が狭くなっていた。地図の距離からするともうとっくに県道に出ていてもいいはずなのに、そんな気配すらなかった。
「ねえ、もう大分走ってるけど県道はまだかな?」
タマさんが痺れをきらしたように聞いた。
「ナカジーニョ、ちゃんと地図を見てたの?」
道に迷ったのがまるで僕の責任のような言い方だった。
「さあ、とにかくずっと林道だったから何の標識もなかったしね。
でも、タマさんもやばいんじゃないか、て言ってたんだし、しょうがないんじゃない。
方向としてはこれでいいんだから…」
僕一人のせいにされては堪らないので言い返した。
「じゃ、まあ、もう少しこのまま走ってみるか」
その件に関して、二人の意見は一致した。
黒い雲はまるで蠢く巨大な竜のように僕達の上に伸しかかって来た。遠くで出来の悪いフォークのような稲妻が出鱈目に飛び始めた。そして、ゴーッという不気味な音が地面を伝って僕達を揺すぶった。大粒の水滴が一粒フロントガラスに落ちて来て、それが、ばちっ、と大きな虫がぶつかって潰れたみたいな音を立てた。その後は突然まるで延々と続く滝をくぐり抜けでもしているみたいに、厚い水のカーテンのような雨が襲って来た。
「ああ、やばいな」
タマさんはワイパーのスイッチを一番強くした。それでも殆どものの役には立たなかった。目の前の道さえはっきりとは見えないのだ。僕は人の車に乗せてもらっている気安さで、ちょっとしたスリルを楽しんでいたけど、タマさんの方は必死だった。
「たまんないな…、
まったく…」
タマさんは体を乗り出して前を注意深く見ながらないろんな悪態をついた。道の状態が悪くなり、時々タイヤがスリップしたり、車体が大きく傾いて底を擦ったりした。あっという間に道路のあちこちに水溜まりが出来た。車がその中に落ち込んで、凄い水しぶきが上がった。汚い泥水が車の中まで入って来そうだった。
山道はより狭くなり右側が大きな岩の壁で、左側は谷になった。谷の深さは余りに強い雨のせいで見えなかったけど、下手にそこに落ち込んだりすると大変な事になりそうだった。道幅が本当に車一台がやっとぐらいに細くて、ほとんど左側は路肩から落ちているような状態だった。ますます点目になってタマさんはハンドルにしがみついた。
やがて目の前に車がやっと通れる程のトンネルが現れた。幅も高さもぎりぎりで一瞬たじろいだけど、後ろに戻るのも厄介なので、僕らは相談してそのまま真っ直ぐ行く事にした。
最徐行でおそるおそる入って行くと、天井に叩きつける雨の音が止み静かになった。一瞬岩の壁にぶつかったような錯覚がしたが、それはただ暗闇に目が慣れないせいだった。よく見るとトンネルは細々とではあったが、ちゃんと続いていた。
「いやあ、まいったね」
タマさんは上下左右に迫ってくる岩肌に圧迫されながら呟いた。僕も閉所恐怖症の人みたいに息を詰めた。
タマさんはライトを点けたけど、途中で曲がっているらしく、光は濡れた岩肌を照らすだけだった。岩肌のあちこちから水が滲み出ていた。そのチョロ、チョロ、という音がトンネルの壁に増幅されて、僕達に押し寄せた。
「まさか行き止まり、て事はないだろうね?」
僕は震える声で聞いた。一瞬この岩の中に閉じ込められて二度と出れなくなるんじゃないかという気分に捕らわれたのだ。でもゆっくりと曲がった所で反対側の出口が見えた。トンネルは意外に短かった。
トンネルを抜けると驚いた事に晴れた空が広がっていた。二人は狐につままれた気分で空を見上げて止まってしまった。上空はかなり風がきついらしく、小さな雲が風に追い立てられるように飛んでいた。でも周りの林は静かだった。
「どこなんだろうね、ここは」
タマさんが呟いた。僕は一生懸命地図を調べてみたけど見当もつかなかった。目の前の道は下り坂になっていた。どうやらトンネルの辺りが峠の頂上になっているらしい。
「とにかくもう少しこのまま行って様子を見ようよ」
曲がりくねった道を行くと向こうの方に何軒か家の屋根が並んでいるのが見えた。
「あそこまで行けば誰かに道を聞いたり出来るよ」
その村の入り口には『鬼首村』という立て札があった。
「凄い名前だね」タマさんがちょっと止まって指さした。
「昔だと本当に鬼が出たのかもね」
「今だって出てもおかしくないぐらいだよ」
僕らはゆっくりとその村の中に車を乗り入れた。
名前に反してそこはありふれた田舎の村だった。何処の田舎にもある民家や畑が並び、その内の何軒かは立派な茅吹き屋根の家だった。ただひっそりとしていて、一人も外を歩いている人がいなかった。畑にも仕事をしている人の姿はなかった。これから舗装工事でもするらしく、道の所々に砂利を山にして置いてあった。そのてっぺんにスコップを突き刺したまま置いてあったりした。道にも砂利を敷き詰めている所を見ると、工事は始まっているのかも知れない。
こんな所で村の中だけ舗装したって何の役に立つのだろう。
赤い楕円の中にたばこと書いた看板を掲げている店があった。よろず屋らしく店の中には大きな箱に入った洗濯洗剤とか、軍手とか、たわしなんかが並んでいた。僕は地図を片手に持って車を下り、ガラスの引き戸を開けようとしたけど鍵が掛かっていて開かなかった。少し戸を揺すぶったり、声を掛けてみたりしたけど返事もない。
「ねえ、だれもいないみたいだよ」
僕はタマさんの方を振り返って言った。
「変だね、こんな時間に。皆昼寝でもしてるのかな?」
「ラテン系の国だったら、シェスタの時間てあるけど、こんな所でそんな事やってる訳ないよね」
「まあ、いいやもう少し行ってみようよ」
僕らはまたゆっくりと車を走らせ始めた。とにかく誰でもいいから人がいたら止まって道を聞くつもりだった。砂利が厚く敷き詰めてあるせいで走りにくかった。ギリギリと砂利を踏む音とエンジンの不満そうな唸りだけが響き渡っていた。
「なんとなく薄気味悪い所だね」
タマさんの声が結構まじだった。僕も同感だった。
前に酒屋が見えて来た。塩の看板が軒先で風にふらふらと揺れていた。そこもガラスの引き戸は閉まっているみたいだったが、とにかく行ってみないとしようがなかった。
一見すると田舎ののんびりした風景に見えるが、何かが違っていた。その違いが微妙ではっきりとつかみ切れなくて、余計に苛々した。タマさんの方も同じような事を考えているらしく、片方の眉だけを吊り上げ、少し首をかしげて黙っていた。
タマさんが少しスピードを上げようとシフトダウンした途端、ガタッと車輪が砂利の窪みに入り込んでしまった。後は蟻地獄のようにもがくだけで前に進まない。
「えい、くそっ」
タマさんはクラッチを切ったり繋いだりして脱出しようとした。四輪の内のどれかが砂利を噛みそうになるのだけど、すぐに崩れてまた窪みに戻ってしまうのだ。
「下りていって、押してみようか?」僕は聞いた。
「いや、大丈夫だよ、すぐに出られるよ」
タマさんはそう言いながらより強くアクセルを踏んだ。
ずるずると何度かタイヤが滑り大きく揺れた後、ガキッと砂利を噛む感触があり、急に車が前に飛び出した。そしてその時左側の路地からに小さな子供が飛び出して来た。
「うわっ!」二人は同時に声を上げ、思い切りブレーキを踏んだ。タマさんは本物のブレーキを、僕はただ右足を突っ張っただけだった。でも気分だけにしても効果があるかも知れない。
車はガクンと前につんのめって止まった。二人とも一瞬フロントグラスを突き抜けて出ていきそうな恰好になった後、思い切りシートにひきもどされた。何かにぶつかった衝撃はなかった。ショックでエンジンが止まってしまった。
僕は慌ててドアを開けると子供の様子を見た。子供は道の反対側、五メーターぐらい先に倒れていた。五才ぐらいの女の子だった。兎の模様を編み込んだ黄色いセーターの背中を見せていた。その光景は非現実的で、何となくただの縫いぐるみの人形が転がっているみたいに見えた。でも、おかっぱにしたやわらかそうな髪の毛がとても現実的だった。周りに血の流れているような形跡はなかった。これから流れて来るだけかも知れない。そう思うと事の重大さに身体が震えた。
タマさんも半分あけたドアから身体を乗り出し、放心したように見ていた。普段でも白髪の多い髪がより白くなったようだった。
でもその時の恐怖はこの物語では、イントロに過ぎなかったのだ。下手なホラー映画のキャッチ・コピーみたいだけど、本当の事だ。
二人は暫く凍りついたまま動けなかったが、とにかく何かの処置をしなければいけないと思い、殆ど同時に女の子の方に行きかけた。
その時女の子が急にひょっこり、と起き上がった。小さな背中の兎も一緒に、オレンジ色をした人参をくわえたまま起き上がってきた。
それはまるで昼寝から目覚めたのか、あるいは白雪姫ごっこをしていたみたいだった。今、想像の中の王子さまが彼女にキスしたのだ。彼女は自分のセーターに付いた埃を叩いた。花びらのような掌があどけなく楽しそうに動いていた。
「大丈夫だったんだ!」僕らは一瞬安堵の溜め息を洩らした。肩から力が抜けた。
そして唐突に彼女はこっちを振り返った。
その目は大きく見開かれていたが、そこには白目の部分がなかった。鼻が完全に上を向き、小さな三角形を二つ寄せた恰好の穴が開いていた。小さな口には細長い牙が覗いていた。それはまるで蝙蝠のような顔だった。
おかっぱ頭をして兎ちゃんのセーターを着た蝙蝠…。
最悪なのはその顔に憎悪を一杯みなぎらせている事だ。彼女は黒一色の目を異様に輝かせ、低い唸り声をあげて僕らを威嚇した。
僕の髪の毛が文字通り逆立った。僕は自分でも意識しない内に車に飛び乗っていた。そして悲鳴を上げながら窓ガラスを上げるハンドルを探した。とにかくガラス一枚でも、目の前にいる気味の悪い子供から離れたかった。この車がパワー・ウインドーを付けている事に気付くのに暫くかかった。お陰で右手を突き指した。僕は窓が閉まり切ってもまだパワー・ウインドーのボタンを押し続けた。タマさんは一生懸命エンジンを掛けようとしていたが、先刻のショックで調子が悪くなったらしく、中々かからなかった。
女の子は僕らを睨みつけたまま立ち上がった。そしてどうやったのか五メーターぐらいの距離を一気に飛んでボンネットの上に乗っかって来た。タマさんも僕も悲鳴というよりわめき声を思い切り張り上げた。多分タマさんの頭には白髪が何本か増えた事だろう。僕の心臓も間違いなく三ヵ月ぐらい寿命が縮まった。三ヵ月ぐらい大した事じゃないように思うかも知れないけど、それが一瞬の内の事だから、やはり大変な事なのだ。
女の子の爪がフロント・グラスを引っ掻くと筋になって跡がついた。獅子舞のように首を振りながら、彼女はフロント・グラスを突き破ろうとたたいた。間近に迫った姿はますます異様で、この世のものとは思えなかった。牙を剥き出しにした口からは泡を吹いていた。片一方のワイパーが小さな手でぐんにゃりと曲げられてしまった。
ヴワァーン、その時やっと大きな唸りを上げてエンジンが掛かった。タマさんはすぐにギアを入れ発進した後、急ブレーキを踏んで女の子を振り落とした。同時に僕の膝がラジオにぶつかり、僕の呻き声と同時にけたたましい演歌の音が鳴り響いた。酷い事をして居るという意識は二人とも無かった。とにかく相手はばけものなのだ。
タマさんはハンドルを切って大きく女の子を避け走り始めた。それはその子を可愛そうと思ったからではなく、そんな気持ちの悪い物にちょっとでも触れるのが嫌だったからだと思う。
砂利にタイヤを取られて尻を振った後、車は走りはじめた。
僕が振り返って見ると、凄まじい砂埃の向こうで女の子はもう立ち上がっていた。そして、車の後を追い掛けて走りはじめた。
「タマさん、やばいよ!追い掛けて来るよ!」
「分かってるよ!」
タマさんは不機嫌な声で怒鳴った。ルーム・ミラーで後ろの様子を見ていたのだ。
曲がりくねる道をタマさんは最高のスピードで飛ばした。もっとも下が砂利道なのでなかなか思うようには進まなかった。撥ね上がったり、尻を振ったりしながら、それでも車は村を抜けた。天井に頭をぶつけないようにするのが大変だった。
村の砂利道を抜けると少しはスピードが上がった。道はずっと下り坂で細かく曲がりくねっていた。これで対行車なんかがあったりしたら大変な事になっていただろうけど、幸いそういう事はなかった。
しばらく走った所で僕は後ろを振り返った。もうもうと上がった砂埃があるだけで、女の子の姿は見えなかった。タマさんもルーム・ミラーを確かめながらスピードを緩めた。
「振り切ったみたいだね」
僕は息を弾ませながらそう言った。
「そりゃ、こっちは車だからね、追いつけっこないよ」
タマさんも息を弾ませていた。
「何だったんだろうね、あれは?」
「何だったんだろうね」
タマさんも僕の方を振り返って言った。
そして二人同時に笑いだした。今までの緊張の反動で二人の笑い声がヒステリックに響いた。タマさんはダッシュボードを叩き、クラクションを鳴らした。さすがにドラマーらしくリズムが出来ていた。
その時だった。二人の声以外の音が聞こえてくる気がして僕は笑うのを止めた。それは耳から聞こえて来るというのではなく、心の中で響いてくるような音だった。タマさんも気付いたらしく、ぽかんとピンポン玉を飲み込んだように口を開けたま黙った。
それは、スーッ、ハーッという息づかいの音だった。それも小さな子供の息つかいのピッチの高い音だ。おそるおそる二人は後ろを振り返った。
黄色いセーターが最初に目に付いた。もうもうと上がった砂埃の向こうで最後のカーブを曲がってくるところだ。デニムの短いスカートとズックの靴がスキップに合わせて揺れていた。擦り剥いた膝に血が滲んでいるのが、妙に生々しく目に映った。
「うわーっ」タマさんは慌ててアクセルを踏み込んだ。ころげ落ちるように車は坂を駆け下りた。二人とも無我夢中だった。何度も路肩から飛び出しそうになったけど、それでもスピードは緩めなかった。いつまで経っても女の子の息づかいの音は消えなかった。エンジンの唸りやタイヤの軋みの音を越えて、今やさらにはっきり増幅されて二人の心に届いた。そして僕が振り返る度に、最後のカーブをまわってくる女の子の姿が砂埃の向こうに見えるのだ。
そして何時の間にか車は海岸に出ていた。目の前には誰もいない砂浜があり、両側は海の風を受けて斜めに傾いたまま立っている松の林があるだけだ。もう車で走る事は出来なかった。タマさんは茫然とした表情で車をとめた。そしてゆっくりと二人は後ろを振り返った。かなり距離はあったが、ちゃんと女の子は僕達の後に付いて来ていた。近づいてくる彼女は一見楽しそうだった。
最初にタマさんが飛び出し、僕がそれに続いて林の中に飛びこんだ。とにかくもう車を置いて逃げるしかなかった。松の根っこに足を取られ何度も引っ繰り返りそうになった。もう僕は後ろを振り返らなかった。今や僕自身の息や心臓の音が頭の中で大きく鳴り響いていたが、それでも彼女のスーッ、ハーッという息づかいの音は消えなかった。
僕は日頃の運動不足を痛感した。
もう貧血を起こしたみたいに気分が悪くなってきた。
スタスタと前を走っていくタマさんの後ろ姿が見える。
うしろからは別のもっと軽そうな足音が聞こえてくる。
僕自身はもう、走るのが嫌になってきた…。
ピ ア ノ の 、 一 子 さ ん
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一子さんが笑うと頬から顎の線がミッキー・マウスの恋人のようにハート型になった。
一子さんは黒いハイネックのセーターに、黒いジーンズを穿いていた。ポニー・テールにした髪が午後の日差しを浴びて少し赤っぽく見えた。その姿が妖精のようだった。でもいい事をする妖精なのか、悪い事をする妖精なのかは分からない。僕がそう言った時、一子さんは「さあ、どっちでしょうね」と言って笑ったのだ。
一子さんはハーブ・ティーを入れたマグ・カップを僕にくれた。でも自分はカップをテーブルに置いたままピアノの椅子に座り、片手でなんかのメロディーを弾いていた。休みなくリハーサルを続けていたせいで少し頭がぼんやりしていた。
「今年は雨ばかり降ったけど、やっと晴れの日が続くようになりましたね」と僕が言うと、「私、雨は好きだけど、もう飽きたわ」と言った。
僕はハーブ・ティーを一口啜った。一子さんはピアノの手を止めて、僕の方をちらちらと見ていた。不思議な香りがした。今までいろんなお茶を飲んだ事があるけど、そのどれとも違っていた。なんの香りだろうと考えたけど、分からない。強いて言えば、海の香りに近いかもしれない。
「これは、なんのお茶ですか?」と聞くと、一子さんはうっふっふっ、とまたハート型の頬をして笑うだけだった。
その瞬間僕は深い海の真っただ中に居た。
あまり深いのでほんのわずかしか光が届かなかった。水の中なのに、呼吸は楽だった。水圧の圧迫感もなかった。まるで上も下も左右も無い空間の真ん中に浮かんでいるような気分だった。僕は一人ぼっちだった。魚も余り深すぎて来ないようだった。まったく何でこんな所に来てしまったんだろう?と僕は溜め息をついた。とにかくもう少しリハーサルをやって、曲を全部かたずけないといけないのだから、こんな所で暇をつぶしているわけにはいかないのだ。
どっちを向いても同じように殆ど真っ暗なだけで、どっちが上なのか下なのかも判らなかった。でも微かに明るく見える所があって、それが海面からの光のようだった。僕はそっちに向かって泳ぎはじめた。汐が僕の体を撫でて行った。髪が心地よくなびいた。気持ちいい春の日のそよ風みたいだった。
しばらく行くと、大きなマンボウが漂うように泳いでいた。マンボウは珍しそうに寄って来て、行ったり来たりしてながら僕の周りを回った。どうやらあまり平たい体の両側に目が付いているものだから、一遍に両目で僕を見る事が出来ないらしい。それで右目で見たあとは左目というふうに、僕の周りを回りながら片目づつ交代で見ているのだ。
上に向かって泳いでいるうちに大分周りが明るくなってきた。僕は時計を見た。親父に貰った防水の時計は海の中でもりっぱに動いていた。二時半だった。リハーサルは四時迄だから、早く戻らないと時間がなくなってしまう。僕は急いだ。
海面は間近になり太陽の光がカーテンのように揺れていた。小さな魚が雲のように群がっている所を僕は突っ切った。魚の雲の中に僕の体の幅に道ができた。誰が合図をしているのか、魚達は同時に一斉に向きを変えた。その瞬間、鏡の粉をちらしたように鱗が光った。
そして僕はやっと海面に顔をだした。
気が付くと僕はマグカップを持ったまま居眠りをしていた。僕は目をぱちぱちと瞬かせ犬のように、ぶるっ、と一回首をふった。一子さんは相変わらず片手でピアノを弾いていた。夢を見ていたらしい。でも夢にしてはいやに現実的だった。汐の流れの感触なんかがまだ体に残っていた。
「僕、居眠りしていたみたいですね」と言うと、一子さんは振り返ってにっこりと微笑んだ。「大分長い間ですか?」と聞くと「ほんの少しよ」と応えた。
そのあと一子さんが「気持ちよかった?」と聞いたけど、それが居眠りの事を言っているのか、海の底の事を言っているのか僕には判らなかった。
「さあ、次の曲をやりましょうか」と言いながら一子さんは譜面を出した。
僕は時間が気になって時計を見た。防水の時計の内側が水滴で曇っていた。
僕達はブラジルのカンドンブレを題材にした曲を練習しはじめた。僕がテーマを歌い終わると、そこから急にフリーになりアフリカの黒魔術のような、おどろおどろしい世界が始まるのだ。フリーになった瞬間からの一子さんの迫力は大したものだ。左手で最低音を弾きながら右手は金属的な不協和音を重ねていく。その手の動きがまるで魔女の儀式のようだった。
全部の曲をやり終わった時、まだ少し時間が余っていた。
「また、ハーブ・ティーでも飲みますか?」と一子さんが聞いた。
「先刻のとは違うのがあるんですよ」
僕は「ええ、頂きます」と応えたけど、すぐに後悔した。さっきのお茶が居眠りした事と関係ある気がしたからだ。一子さんは台所に行き、お湯を沸かす音が聞こえてきた。そして別のカップに入れたハーブ・ティーを持って戻って来た。
僕はカップを受け取ると用心深く香りを嗅いだ。先刻とは違う、不思議な香りがした。深い森の香りだった。そして一瞬迷路のような森の幻を見た。あるいはそんな気がした。
僕はカップを持ったまま飲むのをためらっていた。
一子さんもお茶には口を付けず微笑みながら僕を見ていた。
その目がいたずらっぽく輝いていた。
ヴ ァ イ ブ の 、 出 口 さ ん
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ラジオで日程消化試合のような詰まらないナイターを聞きながら、僕は一人食事の後かたずけをしていた。水道を出しっ放しにしているので、ラジオの音はよく聞こえなかったが、そんな事はどうでも良かった。まあ言えば、かたずけの為のBGMみたいなものだ。誰かがホームランを打ったらしく、アナウンサーの金切り声以外、殆ど水道の音と変わらない騒音になっていた。
その時部屋の外で「なかむらくーん」と誰かが呼んだような気がした。
誰か今日来るて言ってたかな?なんて思いながら僕は水道を止め、ラジオのボリュームを絞った。するともう一度はっきりと「なかむらくーん」という声が聞こえた。
僕は慌てて手を拭くとアパートの階段を降りていった。
階段の下には出口さんが一人でぽつんと立っていた。
「あれ、リハーサル明日って言わなかったっけ」僕が聞くと、出口さんは
「いや、今日て言ったよ」
といやに強い調子で言った。明日でも今日でも僕にはそんなに変わらないのでまあいいやと思った。
出口さんは何か落ち着かない様子できょろきょろしていた。
「まあ、上がってよ」
と言った途端、出口さんはさっさと階段を登って先に僕の部屋に入ってしまった。僕が部屋の扉を締め靴を脱いで上がると、出口さんはもう部屋の隅であぐらをかいて座っていた。そして両手の手首を骨が鳴る程強く振っていたけど、それはいつもの癖なのだ。でも何時もと違って今日の出口さんは落ち着きがなく、そわそわとしていた。
「楽器は?」と僕が聞くと、出口さんはズボンの尻のポケットから小さく折り畳んだビ
ニールの袋のような物を取り出し、それに息を吹き込みはじめた。そしてあっという間にそれはヴァイブの恰好になった。それを膝の上に乗せたまま、出口さんは得意そうに微笑んだ。そして何時の間にか両手にマレットも握っていた。
「へえ、そんな便利な物があるんだ」
僕は感心して聞くと、
「これと同じギターもあるよ」と出口さんがいった。
「今度楽器屋にいって見てこようかな」と僕は言った。本当にそんな物があるのなら買って来ようと思った。とにかく今使っている楽器は大きくて重いし、持ち運ぶのが嫌になるのだ。
その時玄関のドアをどんどんと叩く音がした。チャイムが壊れていて鳴らないので、ドアを叩いているのだ。どうせまた新聞の勧誘だろうと思いながら僕はゆっくりと立ち上がった。そしてドアの所までくると「なんですか?」と不機嫌な声で聞いた。新聞の勧誘なら「うちは取らないから」と一言でかたずけるつもりだった。
「なかむらさん、開けて下さい。せえふの者です」
相手はいやに高圧的な声で、殆ど僕に命令するように言った。せえふ、というのが何の事なのか分からず、「用件はなんですか?」と僕は聞き返した。
「我々は日本せえふの者です。緊急の用事です、早く開けて下さい」とますます高圧的な声が返ってきた。
日本せえふ、セーフ…?暫くしてやっとせえふが政府の事だとわかった。
でも政府が何の用なんだろう?僕はぼんやりとした気分で鍵を開けた。
廊下には紺の背広を着た人相の悪そうな男が二人立っていた。服装はともかく人相はやっぱり新聞の勧誘みたいだ。二人は内ポケットからオレンジ色の手帳を出し、僕の目の前に突きつけた。それは年金手帳のように見えたけどそれぞれの男の顔写真が張りつけてあり、その下には厳めしそうな数字が並んでいた。
男達はとても緊張した表情で
「今、男がこの部屋に入って行ったでしょ?」と聞いた。
「ええ、友達のミュージシャンの出口さんが来てます」と僕が答えると、
「そいつだ」と言いながら二人は土足のままで部屋に上がり込んできた。
僕はその事に腹がたって
「ちょっと待って、靴ぐらい脱いで下さい」と言ったけど、二人は聞いてもいないように部屋の中を一周した。
不思議な事に出口さんの姿はとどこにもなかった。
「ちっ、おそかったか」と吐き捨てるようにいうと、政府の男達は僕になんの挨拶もなく走って出ていってしまった。
「まったく…」僕は二人の余りの無礼に腹が立ち思い切り力を込めてドアを閉めた。しかし出口さんが見えないのは不思議だった。どこに行ってしまったのだろうと思いながら一応トイレを調べた。勿論出口さんは居なかった。そして風呂場の方もと思いドアを開けると、いつのまにか出口さんが湯船に浸かっていた。
「やあ、勝手に風呂に入らせてもらったよ」と出口さんは微笑みながら言った。だけど瞳の色は緊張していて笑っていなかった。
変だなと思いながら、「ああ、そう」と僕は答えて扉を閉めた。でも出口さんはタオルを持っているのだろうか?と思いすぐにまた扉を開いた。
「ねえ、タオルは…」そう聞こうとした時、湯船の中には出口さんの代わりにぼんやりと燐光を放っている宇宙人の姿があった。宇宙人はあんぐりと口を開けて居たけど、それが見つかったせいなのか、元々そういう顔なのか僕には分からなかった。
先刻の政府の男たちが探していたのはこの宇宙人の事だったのだ。
僕は慌てて風呂場のドアを締め、先刻の男達を探して部屋を飛び出した。
「たいへんだ!」僕はアパートの階段を駆け降りた。
彼らの姿はもう見えなかった。
僕は大体の見当を付けて走りだしたが、いくら走っても誰にも出会わなかった。
ひとっこ一人見えない。
坂の街の商店街は全部シャッターを下ろしていて、いつもは我がもの顔に通りを歩いている猫の姿すら無い。
街中の明かりという明かりが消えていて、星がいやに鮮やかに瞬いているだけだ…。
サ ッ ク ス の 宮 野 さ ん
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信子は自転車のペダルを一生懸命こぐ。川沿いの土手に砂埃が上がる。埃っぽい雑木が信子を見下ろしている。タイヤが小石を撥ね飛ばす。小石が土手を転がって、乾いた草むらを揺する。
土手の上からは、町がお盆のように平らに見える。電信柱やテレビのアンテナが刺みたいにつんつん立っている。夕焼けと夜の色が混じった空が、丸く町を覆い尽くしている。その中にもう、一つ二つ明るく輝く星が見える。
夕日が大きな顔をして町の向こうに沈むところだ。赤い円盤が、空に向かって突き立ってた指のような煙突にかかっている。コンクリで出来た煙突にはペンキで『宮野湯』と書いてある。その字が夕日を浴びて赤っぽく見える。信子はそこを目指している。
肩ぐらいまで伸ばした髪を、信子はポニー・テールにまとめている。その尻尾が自転車をこぐのに合わせて右に左に揺れる。それと一緒に、荷台に括りつけたプラスチックの洗面器がかたかたと音を立てる。中にはシャンプーとリンス、それにブラシと石鹸箱が入れてある。縞模様の石鹸箱には信子の好きなブーケの香りのする石鹸が入っている。洗面器の上にタオルと着替えの下着を乗せてあるので、中のものは音を立てないはずだけど、カタカタと聞こえる音は箱の中の石鹸が鳴る音だ。
信子の家には立派な風呂場があるのだが、それでも自転車に乗って『宮野湯』に出掛けるのはそれなりにわけがある。
土手を下りて町に入ると、しばらく木造の民家が立ち並ぶ路地を走る。砂利道から舗装道路に入った所でペダルが軽くなる。同時に石鹸箱の音が止む。板塀越しに路地を覗き込むように植木が頭を覗かせている。その葉が濃い緑に色づいている。夕餉の支度らしい微かな煙が、それぞれの家の勝手の窓から流れ、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
路地を抜け、町のささやかな大通りに出ると、すぐに駄菓子屋がある。夕飯時を前に、悪ガキ達が小さなプラスチックの玩具や袋詰めされた怪しげなお菓子を手に、盛り上がっている。店の前に自転車が何台か倒れているけど、そんな事はお構いなしだ。むきになっ
て叫ぶ子供達の声が信子の耳にも飛び込んでくる。半ズボンにズックの靴。頼りなさそうな細っこい足が、信子にはとても愛しくみえる。ついこの間まで自分もその仲間だったのに、そんな事がもう遠い過去の事に思える。自分を大人と思ってみたい年頃なのだ。
甘味屋の軒先に『氷』の涼しげな旗が下がっている。白地に赤い字、そして紺の千鳥が遊んでいる。まだ少し早すぎる気もするけど、もうそんな季節かな…、と思いながら信子は微笑む。帰りにあの店に寄って氷あずきを頼んでみよう。風呂上がりにはそのおいしさは格別だから…。
軽トラックや乗用車がクラクションを鳴らしながら通り過ぎる。何となく間延びした人の良さそうな音だ。信子が自転車を脇に寄せると、運転台の小父さんが片手をあげて会釈して行く。町の中心に向かって段々活気が満ちてくる。買い物かごを抱えた小母さん達がいそいそと歩いている。その人込みを、チリンチリン、とベルを鳴らしながらすり抜けて
行く。
『宮野湯』の前はコイン・ランドリーになっていて、風呂に入る間に洗濯も済ませようという人達の役に立っている。その入口の小さな空き地に自転車を止め鍵を掛ける。荷台の洗面器を降ろすと信子は、紺地にたった一字白い字で『ゆ』と書かれた暖簾をくぐる。
いつもの十七番の下足箱が空いていた。信子はいつもそこに靴を入れる事にしている。別に大した意味はないが、それは自分の歳の数字だし、何となく縁起がいいような気がするのだ。たまにそこが空いていなかったりすると少し不機嫌になる。
一段高くなったガラスの引き戸を開ける時、いつも信子の胸が少し高鳴る。
『あの小父さん、今日も居るかしら?』
何回かこの銭湯に来ているけど、小父さんがいるのは、大体三回に一回位の割だ。
重いガラスの入った引き戸を開けると、銭湯らしい湯の匂いと、カラン、カラン、と洗面器や椅子の鳴る音が聞こえる。番台の上には小父さんが、いつものこげ茶色のちゃんちゃんこを羽織って座っていた。信子はとても幸せな気分がして、一人で微笑む。
湯船の方から声高に笑う小母さんの声が聞こえる。この時間の女湯はあまり人が入っていないのだけど、小母さんの声はよく通るし、よくしゃべるので何人もいるみたいに聞こえるのだ。
ジーンズのポケットから小銭を出し番台に乗せると、番台の小父さんがお釣りを確かめて差し出してくれる。小父さんは柔和な目で「いつもありがとう」とちょっと済まなそう
な言い方をする。小父さんが自分の事を覚えていてくれた、と思うとうれしくなる。
「いいえ…」と信子ははにかみんだ笑顔を見せる。すると小父さんはもう番台に据えつけてある小さなテレビの方を向いてしまう。
信子はもう少し小父さんと話がしたかったのに…。
脱衣ロッカーも十七番を使う。それは自分の幸運の番号だし、胸の高さ位しかない棚をはさんで番台の小父さんが見えるのだ。
小父さんは何時もの柔和な目でテレビを見つめている。でもその目はちゃんとした時には厳しく光るのだろうな、と思う。頭のてっぺんにだけ残っている髪が可愛い。鼻の下と
顎の髭はもう半分白くなっている。小父さんは何となく昔のお公家さんか、神主さんのような容貌をしていると思う。
信子がそのCDをみつけたのは去年の暮れ、叔母の家の大掃除を手伝っている時だ。
叔母の家の手伝いをするのは信子にとって楽しみの一つだ。特に年の暮れの大掃除には家中の物を公然と引っかき廻す事が出来るから、信子は喜んで出掛ける。
「まったく手伝いに来てるのか、邪魔しにきてるのか分からないわね…」
と文句を言いながらも、叔母自身信子の引っ張り出してきた古い雑誌や写真に見とれていたりするので、中々仕事ははかどらない。
いつもより念入りに掃除をしようと、押し入れの奥まで入って行ったときだった。信子はそこでCDの一杯入った箱を見つけたのだ。叔母も懐かしそうに寄ってきた。
「家の中の何処かにあるとは思ってたんだけど、こんな所にあったんだ…」
叔母は嬉しそうな声を上げて箱の中からCDを一枚一枚引っ張り出した。
信子はCDという物が昔あった事は聞いて知っていたが、実物を目の当たりにするのは初めてだった。
「いまの時代CDを持ってる人なんかいないでしょうね。
私があなたぐらいの時は、音楽と言えばみんなこれで聞いていたんだけどね…」
叔母はもう完全に座り込んでしまった。
「何処かにプレーヤーが仕舞い込んであるはずよ…」
そして結局埃だらけのプレーヤーを見つけ出して来た所で、その日の掃除は終わったも同然だった。
CDが全盛の時代を勿論信子は知らない。今レコードの主流はLPだ。初めてCDを手に取ってみて思うのは、とても小さくてジャケットなんかが迫力ないなという事だ。LPしか見たことの無い信子にはそれが、子供の玩具かミニチュアに見える。ジャケットのミュージシャン達や色々な写真やイラストが、可哀相なぐらい小さく押し込められている。
『これじゃやっぱり、誰も手にしようと思わなかったんだろうな…』
結局CDがすたれてしまった理由が分かる気がした。
叔母は昔からハイカラな人だ。趣味が広く、特に音楽や映画の話をすると、本当にいろんな事を知っている。信子は叔母の話を聞くのが好きだ。ジャズ、クラシック、シャンソン、といろんなCDを掛けながら叔母は昔の話を色々してくれた。
CDの音はとても透明できれいなのだけど、LPになれた信子の耳にはちょっと薄っぺらな感じがした。でもそれが時代を感じさせる。
「あの頃のことは古き良き時代とは言えないわね…。
なんか時代全体がつんつん尖った感じがしたもの…」
叔母はそう言った。
何枚か適当に飛ばしながら聞いた中で、一枚信子の心に残る音があった。
「これ、私好きだわ」と信子が言うと、
「どれどれ…」と叔母が手を出した。信子がジャケットを渡すと、
「ああ、これね…」と頷いた。
「これ、もう一度かけてくれる?」
「いいわよ…」
サティという人のピアノのレコードを止めて、叔母はもう一度信子の渡したCDをかけてくれた。
宝石の一杯入った箱の中をかき混ぜるようなギターの和音がして、それにちょっと低くて気だるい男の人の歌が重なる。何処の言葉かは分からないけど、鼻にかかった声が甘く響く。ゆったりとしたリズムが続き、優しい気持ちにさせてくれる。
「ボサノバよ…。
みんな日本人がやってるんだけど、結構いいでしょ?」
信子は微笑みながら頷く。
この音楽全体が好きだけど、信子の特に気に入ったのは間奏の所で出てくるサックスの音だ。信子はその音がとても綺麗だと思う。とても誠実そうな、温かな音だ。一遍に信子はそのサックスのファンになってしまった。そして初恋の時のような温かな、切ない気分が胸一杯に広がった。
信子はそのサックスを吹いている人に会ってみたいと思った。会ってほんの一言でもいいから話してみたい。でもそのCDは昔のものだし、もしかしたらもうその人はこの世には居ないかも知れない。もし居たとしても、こんな田舎町じゃ仕方がない。信子はちょっとため息をつく。
「私、このサックスの音が好き…」
すると、叔母がとても意外な返事をした。
「本当?
それ確か、お風呂屋の宮野さんよ…」
信子には一瞬叔母が何を言おうとしているのか良く分からなかった。
「何…?」
「あの風呂屋をやってる宮野さんはね、昔ミュージシャンだったのよ…」
信子は脱いだシャツとジーンズを無造作にロッカーに突っ込む。番台の小父さんを見ると、相変わらず小さなテレビを見ている。
何度か信子はあのCDの事を小父さんに聞いてみようとしたけど、小父さんは何時も素っ気なく挨拶してくれるだけで、何となく取りつく島もない。叔母が言ってたように本当
にあの人がサックスを吹いているのだろうか、確かめてみたい。
でも信子の心の中ではもう確信はある。きっとあの小父さんに間違いないと思う。
あの音と雰囲気がぴったり合う人なんだもの…。
番台で楽器の練習でも始めてくれたら、間違いないんだけど…。
ブラジャーのホックを外す時、番台の小父さんがこっちを見ているような気がした。
「いやだわ…」
信子はちょっと顔をしかめて小さな胸を両手で隠した。