ラジオでの野球観戦とライブ
Sony On LineのHPに2001年に掲載されたものです
今年はもう終わってしまったがナイターの季節、プロ野球観戦は主にラジオでしている。家にはテレビがないからだが、それはそれでいろんな楽しみがある。困るのは選手の顔が分からないことぐらいで、負け惜しみでなく、ラジオの方がより面白いような気がする。試合の流れはアナウンサーの言葉とラジオから流れてくる球場の騒音をたよりに想像する。想像の世界の空気感は濃密だ。アナウンサーの説明する選手の一挙手一投足は拡大され、ピンチを迎えたピッチャーの焦りや、決定打を狙うバッターの高揚した目の輝きは、現実以上に劇的に迫ってくる。たまにテレビで観ると、ラジオで慣れた僕にはなにもかもが淡々と過ぎていくように見えてしまうのはそのせいだろう・・。
テレビではどうしても映像を重視するので解説者のコメントも淡白な気がする。映像が雄弁に物語るテレビではしゃべり過ぎる解説者は邪魔になってしまうが、ラジオは違う。人にもよるが、解説自体が試合とは・ の物語を構成していたりするのが面白い。まるで自分がグランドでプレイしているかのように感情的に入り込む人、あくまでも客観的に分析に徹する人・・、解説者自身の個性がよりはっきりと出て、試合とは別の流れを作ってくれる。それがラジオでの野球観戦のひとつの楽しみにもなっている。
「球を置きにいっていますね・・」
ツー・アウト満塁に四番打者・・、カウントはノー・ツーといったような場面でピンチになったピッチャーがおそるおそる投げる球を解説者はよくそういった言い方で説明する。その一球が試合自体の体制を決めかねない場面だ。ピッチャーとしてスリー・ボールにしてしまうといよいよ追い詰められるし、まして押し出しのファー・ボールなんかだしてしまうと自軍の士気にまで影響してしまう。絶対にストライクを投げないといけない場面だ。
「あまりに打ちごろなので、かえってバッターが見逃してくれたから助かったけど、危ない球ですね・・」そして、次の球はもっと攻めていかないと・・、置きに行くと今度は見逃してくれないでしょう・・、といったようなコメントが続く。僕はそういった経験者の表現が好きだ。テレビで観ているときは、ピッチャーの緊張感は見えたりするが、投げる球がそんなに差があるようには見えないものだ。ラジオで聞いているとマウンドのピッチャーの心の震えが感じられ、置きに行った球の頼りなさがまざまざと思い描けてしまう。
そして突然僕はその言葉を自分世界のことに置き換えて想像し始めてしまう。
置きに行く球・・?それは僕の世界では、置きに行く音・・、ということだ。自信がなくて、軽くギターの弦を撫ぜたように弾いてしまう音、そういった感じがする。アコースティック・ギターの反応はシビアだ。その音には芯がなく、自信を持って弾いた音に比べるとはるかに軽く聞えるだろう。あるいはマイクには爪のあたる雑音だけが入って、肝心の音は届かないかもしれない。額にじわっと汗が湧き出る。ダイナミックスがなくなり、そして緊張感の糸が切れそうになる。一生懸命膨らませていた気球に穴が開いたような感じ。他の人にはどういう風に映るかわからないが、僕にとっては大変な一瞬だ。流れていたリズムが死んでしまい、その日のライヴ全体までが台無しになりかねない・・。その一球が試合を壊しかねないのと同じように・・。
そして僕は自分のことのように緊張しながら次の一球を語り始めたラジオに耳を傾けるのだ。