[大人のコラム]

 

サウダージ・ダ・バイア
            (懐かしのバイア)

                           
中村善郎

 エーッ、オーッ、バーッ!
  ジャナイダ、ヴァレーオ!
  僕は歩きながら鼻歌を歌っている。
  パクトゥカ、ドゥン、ドゥン…。
  伴奏のコンガの真似…。
  恥ずかしいぐらいカタカナ発音。
  でもそんな事はかまわない。
  腹の中はピンガとショッピ(生ビール)でタプタプ言っているし、頭はまるで大しけの中を行く船の羅針盤のようにぐらぐらしている。通りを歩いているのは僕一人だけだ。薄暗い街灯の光りが、冷たい石畳の道に跳ね返っている。両側の建物は扉を閉ざし、隊列を組んだ兵隊のように厳めしく並んでいる。アルコールのせいでよくは分からないが、結構長いこと歩いている気がする。
  「ちぇっ、どこなんだろうなここは?」
  遊園地の迷路にでもいるような気分。又道に迷ったのだ。これで何度目だろう。でも道に迷うなんて事は大した事じゃない。別に慌てたりもしない。旅なんてそんなものだ。分りきったコースを予定通りに進むなんて、旅とは思えない。予期しない事に出会うからこそ面白いのだ。実際そうやって面白い事に出会う事も、時々はある。面倒臭いこともあるが…。
  誰かいたら、「やあ、こんばんわ」とかなんとか挨拶して、「ところで、ここはどこですかね?」なんて道を聞いたりするのだけど、だあ−れもいない。不思議と耳だけはやけに澄んでいて、自分の足音がよく聞こえる。まわりの壁にその音が反射して響くので、誰か後ろにいるような気がする。だけど振り返ってみても、相変わらず虚ろな街が続いているだけだ。とにかくここがブラジルのバイアという街の中の何処かである事だけは分かっている。でもアルコール漬の頭で考えられるのはそれだけ…。それ以上は、考える事さえ面倒臭い。
  またリオの友達の顔が浮かんできた。バイアの街に詳しく、いろんな情報を僕にくれた奴だ。その友達の言っていた事で引っ掛かっているものがあるのだけど、それが痒い所に手が届かないというか、出てきそうで出てこないのだ。くしゃみしそこなったみたいな気持ち悪さ。まあいいか、そのうち思い出すだろう。
  夜半過ぎ、もう明け方に近いかも知れない。
  あーあ、とにかく眠くて、眠くて…。
  欠伸をして目をこする。涙で滲んで街が歪んだ。そうやって見る風景は何となく非現実的で、まるでミステリー小説を読んだりした時、頭の中に浮かぶ街みたいだった。
  早くホテルに帰り着きたい。ホテルに帰ってベッドに横になったところを想像するだけで、足が止まって壁に寄り掛かりそうになってしまう。
  煉瓦づくりの薄汚れたホテル。建物は古く、壁も床も随分汚れているし、フロントの男は毎晩寝入っている所を僕に起こされるので、極端に愛想が悪かった。それでも僕はそのホテルを気に入っていた。それは海に向かった崖っぷちに建っていて、玄関はゴミゴミとした街の真ん中にあるのに、部屋に入って窓を開けると、一面光り輝く真っ青な海と空が広がっているのだ。そして汐の香りのする風が飛び込んでくる。そいつは最高の気分だ。まるで映画の主人公にでもなったような…。
  願わくばそこで朝の海を眺めたりしながら、素敵な女の子とコーヒーでも飲めれば、なんて思うのだけど…。
  ガシャッ、
  突然すぐ傍で大きな音がした。僕はびっくりして立ち止まった。
  ごみの缶か何かがひっくり返ったらしく、目の前の細い路地から、錆ついた空き缶が転がり出てきた。そしてその後からゆっくりと、真っ黒な猫が姿を現わした。まるで闇が猫の形に姿を変えたみたいだった。街灯の光を浴びて黒い毛並みの輪郭が微かに銀色に輝いている猫は頭を低く構え僕の方をじっと伺いながら、確実な足取りで建物の隙間から這いだしてきた。その姿が小さいながらも野性を感じさせた。
  「なんだ、野良猫か…」
  僕はふーっ、と溜め息をついた。猫は立ち止まると、金色に輝く目で僕を見上げた。僕は構わず、ふらふらと猫の前を行こうとした。普通の猫ならそそくさと道を譲るところだがその猫は退かなかった。それどころかまるで邪魔をするように、僕の行こうとする方に寄って来た。
  「どけよ!」僕は声に出して言った。でも、猫は悠然と僕を見つめるだけだった。
  まさか、日本語だから分からなかったなんて事は無いだろうけど……。
  そう思うと何となくおかしくて、僕は一人で小さく笑った。
  猫は相変わらず金色の目で僕を見据えていた。その目には冷たい敵意がこもっていた。その視線がなぜか僕を圧倒した。白いひげの先が小刻みに震え、今にも威嚇の唸り声を上げそうだった。彼か彼女、そんな事は僕の知った事じゃないが、とにかく奴には道を譲る気はなさそうだ。
  「分かったよ!」僕は吐き捨てるように呟くと、道の反対側に渡った。
  「ちぇっ」
  けちな野良猫に道を譲らされたのが面白くなかった。歩道に落ちていた空き缶を拾って投げつけた。ナイス・ピッチング。缶は真っ直ぐ猫をめがけて飛んで行った。酔ってるわりには正確なコントロールだ。それでも猫は僕を見つめたまま動かなかった。そして缶が当たりそうになった瞬間、ほんの少し体を逸らすと、黒い毛並みをかするようにして缶が歩道に落ち、けたたましい音を立てて転がって行った。
  猫はその間一瞬も僕から目をそらさなかった。その目がよりいっそう鋭く輝いた。そして鼻の辺りに険しいしわを寄せ、今や微かな唸り声を上げ始めていた。背中の毛が静かに逆立ち始めている。
  ここはお前なんかの来る所じゃないぜ!
  そう言っているみたいだ。
  今までずっと楽しかった旅に水をさされた気分がした。
  ちぇっ、僕は舌打ちして歩きはじめた。
  エーッ、オーッ、バーッ!
  再び歩くテンポに合わせて鼻唄が出始める。
  心の隅でまたあいつの言っていた事が気になる。
  なんて言ってたんだっけ…。

後一ヵ月で日本に帰る事になっていた。それで一年近く居たブラジルともお別れというわけだ。一年と言うと長い気もするが、過ぎてしまうとあっという間の事だ。
  カーニヴァル、リオやバイアの街、サンバやボサ・ノヴァ、アマゾン…。
  ただエキゾチックではかり知れなかった国も、今や僕にはある程度馴染みになった。そして何人かの友達も出来た。本当は些細な事しか知らないのかも知れないが、それでも憧れ以外なにもなかった時と比べると大した違いだ。その分ブラジルに対する情熱は冷めたかも知れないが、それは仕方のない事だろう。現実が空想と同じようにエキゾチックという風にはいかないものだ。
  若さと体力だけを頼りに、がむしゃらに歩きまわった中で一番印象に残っていたのが、バイアの街だった。リオやサンパウロの街はある程度日本人としての自分の感覚でも割り切れるけれど、バイアの街はやはりエキゾチックで神秘的な面がより大きい気がする。それで日本に帰るまで余り時間の余裕は無かったが、最後にもう一度と思い、一週間前また一人でバイアに来たのだ。
  バイアはリオの東北約一,七〇〇キロにある街で、ブラジルの最初の首都があった所だ。前回は三〇時間掛かけてバスで来た。全くブラジルは広い。その三〇時間の間殆ど景色が変化しない。退屈な赤土と濃い緑の大地が延々続き、忘れた頃に小さな街が現れるのだ。それはそれで面白い経験だったが、今回はさすがに時間も無いので飛行機に乗った。
  あまりに呆気なくバイアの街に降り立った時、あのうんざりするという事にさえ、うんざりする旅が少し懐かしく思えた。
  バイアはリオよりさらに熱い。トロピカルという言葉の響きが似合う街だ。海、熱帯の太陽、ココナツの木、そんな物がまるで何の気取りもなく街の中で息づいている。熱気はまるで厚い毛布のように隙間なく体を包み込む。その毛布は決して振り払うことはできない。慣れるしか無いのだ。
  日中坂の多い街を歩くとすぐにシャツが汗で濡れて張りつく。日差しは容赦なく肌を焦がす。でも風は意外と乾いていて心地よい。木陰に入った時の涼しさは本当に魔法のようだ。
  街には古い石畳の路地が複雑な網の目のように広がっている。その街並みを歩いていると、時折建物の陰から明るい海が覗く。それが素晴らしい。でも交通量の多い街角でぼんやりつっ立って海を見ていたりすると、通りを歩いている人にぶつかったり、勢い良く走ってきた車の運転手に怒鳴られたりする。
  時折突然強い風と共に空が真っ黒に曇り、激しい雷を伴って滝のような雨が降る。熱帯地方特有のスコールだ。人々は大慌てで商店の軒先などに避難する。散策の途中にスコール逢ったりすると僕も近くのバールに飛び込む。そしてどろりと濃く強烈に甘いカフェジーニョを注文して雨の止むのを待つのだ。最初の頃はその煮詰めたような濃さに慣れなかったが、今では日に何度も欲しくなる。
  ブラジルでは冷たいコーヒーというものは存在しない。冷たいものが欲しい時は豊富な果物のジュースかコーラのようなもの飲み、コーヒーは絶対にホットでしか飲まない。ブラジル人達に、日本では夏にはコーヒーを冷たくして飲む、なんて言うと、皆とても気持ち悪そうな顔をする。
  「そいつは絶対体に毒だぜ!」
  大抵の奴がそう言いながら顔をしかめる。ブラジルのどろどろに濃いコーヒーの方が、よっぽど体に毒だと思うのだが…。
  その泥のようなコーヒーにも慣れ、いつの間にか真夏の熱い日中でも熱いコーヒーを飲むと喉が潤うようになった。
  始まりと同様、突然嵐は去る。恐ろしい程の雨の後、透明さを増した涼しい風が街を駆け抜ける…。
  バイアの中心街は、港からいきなり六〇メートル程の高台になっていて、港の周辺の下の街と市街地の上の街に別れている。そしてその間をつなぐエレベーターが独特の景観を造っている。僕の泊まったホテルはその崖の上に建っていたのだ。
  前回来た時その下の街でスリに遇い、殆ど全財産を持って行かれ、動けなくなってしまった。ちょうど何かの祭りがあった時で、人込でごった返す中を、不用意にも僕は突っ切ろうとしてしまったのだ。
  気が付くとショルダーバッグのチャックが開いていた。その瞬間氷を飲み込んだように胸が冷たくなった。バイアの街は泥棒やスリに関してもちょっと有名だ。慌てて傍にあったベンチに座ると僕はバッグの中に手を入れた。親父に貰った皮のペン・ケースが手に触れた時は、一瞬助かったかと思った。そのケースの手触りは財布とよく似てたのだ。でもそんなドジにスリが務まるわけはなかった。きっちりと財布だけがバッグから抜き去られていた。
  暫くは途方に暮れた。財布の中にはパスポート代わりのIDカードも入っていたのだ。ブラジルでは州を越えて旅行する時必ずそれが必要だ。パスポートはリオの友達の家に預けてきていたし、バイアに知人と呼べる人間もいなかった。IDカードの代わりを発行してもらうまで、一週間ぐらい無一文で暮らさないといけなくなってしまったのだ。
  その時、結局乞食のようなヒッピー達の御陰で何とか生き延びた。
  彼らとはエレベーターの上の出口にある公園で知り合い、毎晩のようにそこでギターを弾いたりして遊んでいた。夕暮れになると彼らはどこからともなく現れ、誰かの持ってきたギターを弾いて歌ったり、酒を飲んだりして過ごした。僕はギターを弾けたせいで結構彼らのアイドルになっていた。
  スリに逢うまでは酒やつまみが無くなったりすると、必ず僕が買わされるはめになっていたが、一文無しになってからは、毎日仲間のうちの誰かが僕に食事を奢ってくれた。最初は僕の事を指さして、馬鹿な奴、と笑っていたけど、言葉もいい加減にしか分からない外国人が、途方に暮れているのを見て気の毒に思ってくれたのだろう。お陰で僕は飢え死にしないで済んだのだ。
  今回その公園のあたりも行ってみたが、知った顔には出会わなかった。そして僕は公園の傍のバールに足を運んでみた。
  黒人のマスターが僕を見て一瞬驚いたようだった。相変わらず彼の頭は綺麗に禿げて黒光りしていた。彼は僕の傍に来てカウンターに両手をつき、
  「エスフィーヤ(パンの中に挽き肉等を詰めたスナック)かい?ジャポネス」
  と聞いてニヤッと笑った。半年以上経っているのに僕の事を覚えていたのだ。僕は一文無しになった時、ヒッピー連中に連れられて、毎日ここでエスフィーヤを奢ってもらっていたのだ。考えてみると侘しい食事だが、その時は全然気にならなかった。金が無いという事さえ僕は気にしていなかった。むしろあの時が一番楽しかった気がする。
  他の連中は来るかい?と聞いてみた。マスターは唇を尖らせて首を振った。
  「みんな消えちまったぜ。
  まあ、そのうち帰って来る奴もいるかもしれないけどね…。
  あんたみたいにさ」
  そう言いながらマスターはエスフィーヤを一個くれた。
  「こいつは奢りだ。ジャポネス」

 憧れのイタポアンの海岸。
  そこで僕は日没を見た。真っ白に続く長い海岸から海を眺めていると、ジャンガーダと呼ばれる、漁師の小さな帆船が浜に帰ってくるところだった。夕日が水平線にかかる頃、海の上に大きな金色の路のような光りの筋ができ、幾つもジャンガーダがその光りにのまれた。夕暮れの風が心地良かった。昼間の熱さが嘘のように遠のいた。時間が一秒一秒顕微鏡で見るように拡大して感じられた。ゆっくりと軋みながら地球が廻って行くのが分かるようだった。
  海岸近くには、その漁師達の取ってきたばかりの魚を料理して食べさせる店がある。前回は金がなくて残念してしまったのだが、今回はその復讐を果たした。
  僕はカイピリーニャを飲み魚料理を食べながら、漁師達が客席をまわって歌う渋い歌声に耳を傾けた。開け放した窓からは波の音が聞こえ、その向こうでは水彩画のような明るい紺色の空に南十字星が輝き始めていた…。
  バイアは最初にアフリカから奴隷が着いた港であり、今でもアフリカ色の強い伝統が残っている。ブラジルの他の街と比べても、黒人達の姿がより目に付く。
  街角から時々、蜂の唸るようなブーンという独特の音が聞こえてくる事がある。それはビリンバウというバイア特有の楽器の音だ。ピアノ線を張った大きな弓の下に瓢箪を付けただけの簡単な楽器で、その弓を細いばちで叩く。それに瓢箪が共鳴するのだが、瓢箪の口を身体に近づけたり離したりするとブーンと言う唸りの調子が変わる。
  ビリンバウを演奏している所では大抵カポエラを見る事が出来る。一見すると、男たちが身体をアクロバッティックに回転させ、踊っているように見えるが、それはれっきとした格闘技の一種で、足だけを使うものとしては世界最強と言われている。そして男たちの回転するスピードが増すにつれて、ビリンバウの音も高まっていく。
  カポエラやビリンバウもアフリカの文化の名残だ。そしてそれがサンバのステップの基本につながっている。
  もうひとつ街角で目に付くのは、褐色の肌に真っ白なレースのドレスを着て道端でヴァタパ(バイア風のスナック)を売っているバイアーナ(バイアの女の事)達だ。どういう訳か彼女達は一様に太っている。痩せたバイアーナの売っているヴァタパは、まずそうに見えていけないのかも知れない。彼女たちは銀で作った飾りを沢山身につけている。その飾りはスプーンやフォークを型どったものなど、日常に使うもののミニチュアが多い。ホテルの傍にも一人バイアーナが居て僕が通ると銀の飾りをジャラジャラ言わせながら手を上げて呼び止めた。
  「オイ、シネース(中国人)…」
  僕は立ち止まって「ジャポネス!」と訂正してやった。でも彼女はそんな事どうでもいいという風に、
  「一つ食わないかい?おいしいよ!」と言った。
  前回来た時食べた事があるのだけど、その時おなかをこわしたりした記憶があるので断った。どうも、デンデと呼ばれる椰子の油が強いらしい。でも次の日もそのバイアーナは「シネース」と僕を呼び、ヴァタパを売りつけようとした…。

 坂の多い路地を歩くと、あちこちで教会にぶつかる。バイアには本当に沢山の教会が有る。カトリックの信仰のあつい土地だ。しかしそれと同時に表面的には隠れているが、アフリカから伝承されてきた独特の宗教、カンドンブレも存在する。今ではおおやけにもカンドンブレの宗教道具を売る店なんかが並んでたり、観光客向けのショー化された儀式を見物したりできるが、昔は禁止されていたらしい。その時黒人達はカトリック教会の裏側に自分達の神を奉り、教会に行く振りをしながら、カンドンブレの神に祈りを捧げたという話を聞いた事がある。

 その呪術的世界は今だに神秘的ではかり知れない…。

 昼間はそういった街や海岸を訪ねて歩き、夜は毎晩生の音楽を聞ける所ならどこでも足を運んだ。僕がブラジル来た事の目的の半分は音楽を聞く事だったのだから。ブラジル人達は本当に音楽が好きだがバイアーノ(バイアの人間)達はその中でも特別だ。街角のバール(酒場)からは夜通し歌声が聞こえてくる。
  バイアはエキゾチックな美しい街だ。ブラジルの国民的作曲家、ドリヴァル・カイミの歌の中に『バイアに行ったかい?まだだって、それじゃ、行ってみな!』というフレーズがあるが、正に言い得ている。

 そんなある夜僕は偶然“アバランダ”という店を知った。
  “アバランダ”はバイアでも特に古い街並みの続く一角にあるバール(酒場)で、殆ど黒人だけが集まる。店先の歩道の上にもテーブルが並んでいて、その周りで黒人連中がコンガを叩きギターを弾いて、毎晩朝まで一大セッションを繰り広げていた。彼らの音楽は強烈で、今までブラジルで見てきた物より遥かにアフリカ色が強かった。特に一つのコンガを何人もの連中が叩いて出すリズムは、鈍感な僕にも果てし無い大地のうねりのような物を感じさせてくれた。
  近くの劇場でコンサートを聴きに行った帰り、偶然僕はその店の前を通りがかった。そして、その強烈なリズムに誘い込まれるにように入って行った。いつもは馴染みの連中しか集まらないらしく、僕が入って行った時、黒人達は突然現れた日本人に戸惑ったようだった。コンガの音が急に止み、停電で止まったラジオのようにみんなが歌うのを止めた。誰もがショッピ(生ビール)やピンガのグラスを捧げ持ったまま止まってしまっていた。
  押し殺した囁きが交わされた。薄暗い電球が連中の強い体臭や煙草の煙が漂う濃密な空気を、ぼんやりと照らしていた。黒人達の肌の色は半ば闇に溶け込み、彼らの歯と目だけがいやにくっきりと並んで見えた。
  ひどく落ち着かなかった。僕は突然入って来た事を詫びてみた。でもだれも身じろぎもしないで、見つめるだけだった。僕の下手なブラジル語が理解出来なかったのかも知れない。何となく人喰い人種に囲まれているような背筋の寒さを感じた。そんな物が今のブラジルの街の中に居る訳ないが…。
  とにかく、その静寂をなんとかしたかった。
  目の前にギターを構えたまま、呆けたように僕を見つめている奴が居た。僕は胸の前でギターを構える真似をして見せ、そいつのギターを指差した。そして、
  「僕にもそのギターを弾かせてくれないか?」と聞いてみた。
  音楽は言葉を越えるコミュニケーションだ、とよく言われるが、僕もそれを何度か経験してきていた。“アバランダ”でもそれを実践してみるつもりだった。
  そいつは僕が指差したのが気に入らないのか、不服そうな顔で隣の奴に何か呟いた。でもまた僕の方を向くと怒ったような顔をしたままギターを差し出した。ギターを受取り、僕は空いている席に座った。木を組んだだけの粗末な椅子は、足の長さが不揃いになっているらしく、かたかたと音を立てて揺れた。バランスが取りずらいのを何とか我慢して僕はギターを構えた。
  バイアではサンバよりバイヨンの方が一般的な事を思い出し、僕はルイス・ゴンザーガという作曲家の名曲“白い翼”のイントロを弾き始めた。それはバイアーノなら、いや、ブラジル人ならだれでも知っている曲だ。
  あっけない程簡単に連中は僕を受け入れた。イントロを弾き始めてすぐに周りから歓声が上がった。東洋人がそんな曲を演奏したりするということが意外らしく、その驚きがより彼らを興奮させたようだった。最初の歌詞を歌い始めると、みんなが僕と一緒に歌いパーカッションを叩き始めた。誰の目もきらきらと輝いていた。店全体が一個になって大合唱が始まった…。
  エンディングのフレーズをしつこいくらい何度も繰り返し、次第にテンポを早くしながら、僕はコンガを叩いている男に合図を送った。
  「さあ、ここできめるぜ!」
  男は大きな口を開けて笑いながら頷いた。最後のコードを力一杯かきならし、コンガの男もそれに合わせて叩きまくった。
  周りから歓声が起こり、僕は何人もの黒人達に激しく背中をどやされ、荒っぽい祝福をうけた。みんなが親指を立てる仕種をしながら僕に微笑みかけた。それは、最高だ、という意味だ。
  店中の奴と僕は握手した。誰の手も厚ぼったくて汗ばんでいた。僕の前のテーブルにいっぺんにたくさんのピンガのグラスが並べられた。
  バレー・ボールを二つ入れたぐらい大きな胸をして太った女が立ち上がり、僕を指差し命令するように何か言った。自分が歌うから伴奏しろ、という事らしかった。その声には有無を言わせない説得力があった。女は側のテーブルに置いてあったパンデイロを取り上げると、自分でそれを叩きながら歌い始めた。
  それはいわゆるパルチード・アルトというリズムで、サンバでも最もアフリカの原形のリズムに近いものだ。簡単なメロディーの繰り返しに歌い手が即興で歌詞を付けていくのだ。レコードやライヴでもっと洗練されたパルチード・アルトは聞いた事があるが、そんなに生な形で、しかも自分が参加するのは初めてだった。
  僕は彼女の声のキーを探り、強烈なパンデイロのリズムに合わせてギター弾き始めた。重くスピード感のあるリズムが地を這って押し寄せるようだった。彼女は目を大きく見開き、それでいい、という風に僕に向かって頷いた。
  時々彼女が歌詞の中でおかしな事を言ったりして、まわりから明け広げな笑い声と歓声が上がった。男達の掛け声のように囃す言葉が飛びかった。
  彼女が「イタポアンのセルジオを知っているかい?」と歌うと、
  「ああ、知ってるよ」と男たちが囃す。
  中には「いや、知らないぜ」というあまのじゃくもいる。
  「セルジオは一番の漁の名手だ」そこで全員がコーラスになり、
  「一番の漁の名手だ」とリフレインされる。
  「セルジオのジャンガーダは誰よりも早い!そして誰よりも遠い海に出る」
  「誰よりも遠い海に出る」
  「セルジオの投げる網には、沢山の魚がかかる」
  「沢山の魚が掛かかる…」
  彼女のソロとコーラスが交互に繰り返され、小刻みな尻取りのように、物語は進んでいく。
  最初はヘミングウェイの『老人と海』のように“インペラドール(帝王)”と呼ばれる巨大な魚をセルジオが追っていくところが続く。でも嵐に遇い彼のジャンガーダのマストは折れ、舵も流されてしまう。やがて瀕死で漂流しているセルジオの所に海の女神イエマンジャが現れる。イエマンジャは美男子のセルジオを気に入り介抱する。そして二人は恋仲になり、暫く二人だけの甘い日々が続く。
  その間の二人の物語は、僕には余り聞き取れなかったが、かなり猥雑らしく、女がパンデイロを置き色々身振りを交えて歌うと、男達から下卑た笑い声が上がっていた。
  でもセルジオはどうしてもイタポアンが恋しくなり、帰ろうとする。最後にはイエマンジャも諦め、条件をつけて彼を帰す事にする。それはもう海の魚を捕るのを止めるという事だ。イェマンジャにとって魚達は子供も同然だからだ。
  イタポアンに帰ったセルジオは暫くは約束を守り、家に篭もっている。でも根っからの漁師のセルジオは、やがてどうしても漁に出たくなり、遂にジャンガーダに乗って海に出てしまう。そして最初の網を投げた時、怒ったイエマンジャの起こした渦に巻き込まれて死んでしまう。
  でも、物語はまだ終わらない。
  セルジオは山の村の金鉱掘りに生まれ変わる。
  金鉱掘りでも彼は有能で、村一番の働きを見せる。そして彼は山を掘り進むうちに、禁断の石“ドラド”を掘り当ててしまう。それは神々の力の源になっている石だ。彼は万能の力を得、村に幸せをもたらすが、山の神、シャンゴの怒りに触れ、雷に打たれ死ぬ。
  しかしそれでもまだ物語は続く。彼はまたイタポアンに漁師として生まれ変わるのだ。
  アーッ、ハッハッハッ、そこで彼女は大きな声を上げて笑った。
  そしてまた「イタポアンのセルジオを知ってるかい?」と歌い始めた…。
  彼女の胸の上には黒く汗が輝き、リズムは益々大きくうねっていった。
  僕は果てし無く続くリズムの波に酔い、叩きつけるような彼女の歌い方に酔った。彼女とまわりの男達によって歌い次がれていく物語は、余りに寓話じみているのに、不思議とバイアの風土の中では現実味を帯びて聞こえた。まるであのイタポアンの海岸のどこかにセルジオが居て、ジャンガーダに乗っている気がするのだ。
  彼女はルイーザという名で、“アバランダ”のオーナーだった。みんな彼女が歌うパルチード・アルトが聞きたくて来ているのだ。
  その晩、僕は明け方近くまで“アバランダ”で飲み歌いギターをかきならした。
  汗だくになって歌い終わった後、ルイーザは僕に毎晩来てもいいと言ってくれた。

僕はここ三晩“アバランダ”に通っている。慣れてみるとみんなとてもいい奴で、連中からいろんな事を教わる事が出来た。
  今夜は特に楽しかった。今夜僕は初めてパーカッションに挑戦してみたのだ。
  いつものように僕が誰かの歌の伴奏をしている時だった、コンガを叩いてた男が白い歯を剥きだして笑いながら僕を呼んだ。何かと思って行くと、コンガを指さして、自分のやる通りにやってみろというのだ。そしてゆっくりとリズムのパターンのお手本をやってみせた。僕は何とかその通りに叩けたけど、音の大きさも音色も情け無いものだった。それでもまわり中の奴らが、その調子だ、とか何とか囃したてた。
男はコンガの反対側に廻ると、一緒にやろう、と言ってからゆっくりパターンを叩き始めた。僕がそれに合わせると男はテンポを段々早くしていった。そのうち手順がズレてリズムを壊してしまうと、まわりの男たちが大声で笑った。
  何度か失敗を繰り返しその度に僕は笑われたが、それでも何となくこつが掴めて来た。そうすると体が勝手に動き出し、意識しないでも楽々とリズムに乗ることが出来るようになってきた。
  コンガの男が、そうだ!、と叫んで頷いた。
  そして僕の出しているパターンに絡んで、全然別のリズムを叩き始めた。調子をつかんだ僕はそれでも崩れずに叩き続けた。二人のリズムがさらに複雑な波を描いた。そうして延々とリズムの波に浸っていると、僕は体中が空中に浮かんでいるような素晴らしい気分になってきた。大袈裟に言えば、リズムの神髄を垣間見たような気がしたのだ。
  エーッ、オーッ、バーッ!
  コンガの男が吠えるように歌を歌い始めた。それはまるでアフリカのジャングルの土人の歌みたいだ。僕も男の真似をして歌ってみた。
  エーッ、オーッ、バーッ!
  まわりで見ている男たちも体を揺すりながら声を合わせた。
  エーッ、オーッ、バーッ!
  コンガの男が今度はその声に絡むように別の歌を歌い始めた。
  ジャナイダ、ヴァレーヲーッ、ヤナーッ…。
  雪だるまが膨らむように店中が大合唱になった…。

エーッ、オーッ、バーッ!相変わらず鼻歌を口ずさみながら一人で歩いていた。いまだにどこに居るのか見当もつかなかった。道を聞こうにも誰もいない。先刻からあの憎らしい猫以外誰も見かけていない。
  ジャナイダ、ヴァレーヲーッ、ヤナーッ、
  いつもと違う道を帰ろうとしたのが、いけなかったのかも知れない。知らない道を歩くのは好きで、どこでも時々そうやって知らない道を行ってみたりするのだけど、こんなことは初めだった。
  エーッ、オーッ、バーッ!
  もう見知った場所に出てもよさそうなものだけど…。
  エーッ、オーッ、バーッ!
  またリオの友達の顔が浮かんできて、そして先刻から心の奥で気になっていた事が少し形になってきた。複雑にもつれてしまった毛糸をほぐすみたいに…。
  エーッ、オーッ!
  エーッ…!
  急に背筋が寒くなり、酔いが遠のいた。
  遂に友達が言っていた事を思い出したのだ。
  バイアには、夜絶対一人で歩いてはいけない場所がある。それは古い町並みの一角でそこには実際は誰も住んでいない。
  「夜中に一人でそんな所を歩いたりしたら、いきなり路地からナイフでぐさっ、なんて事になりかねないぜ…」
  そして、「次の日には身ぐるみ剥がれて、誰とも分からない死体が、どこかの倉庫の片隅なんかに転がってるのさ」
  友達はそう言って僕を脅かせたのだ。
  でも、それはまんざら嘘でもない。
  もしかして彼の言っていたような所に迷い込んでいるのかも知れないと思うと、背筋が冷たくなった。僕は足を早めた。とにかく坂を上がって行けば街の中心の方に出られるはずだ。息を弾ませ僕は急ぎ足で坂を上がった。相変わらず無人の街が続くばかりで、道はまた下り坂になっていた。迷路のような路地を無茶苦茶曲がったせいで、ますます自分が何処に居るのか分からなくなってきた。
  額に汗が流れた。
  “アバランダ”にいた時の心地良い汗とは違う、粘りつく冷汗だ…。

その時微かな太鼓の音が僕の耳に聞こえてきた。
  僕は立ち止まり耳を澄ませた。何処か近くでサンバをやっているようだった。ブラジルでは一晩中サンバをやっている店なんか珍しくもない。“アバランダ”のような店がこの近くにもあるのかも知れない。
  とにかく誰か居るだろうし、道を聞く事ぐらい出来るだろう。僕はそう思い音のする方に歩き始めた。
  路地が複雑に走っているせいで、音に近づこうとして、かえって遠ざかったりした。でも僕の耳はサンバの音をしっかりと捕えていた。とにかく今の所それだけが頼りなのだから…。
  何度か同じ路地を行ったり来たりしながら僕は次第に音に近づいて行った。
  今やコンガの音とそれに合わせて歌う女達の声が聞き分けられる程になってきた。
  そして落書きだらけの汚れた煉瓦の壁を曲がった所で、やっと僕は音のする場所に辿り着いた。目の前のもうひとつの角を曲がった所から、激しいリズムが聞こえて来る。
  蝋燭をたくさん灯しているらしく、踊っている人の影が壁に写って揺れていた。
  思ったより沢山の人がいるようだ。
  でも壁の人影にはどことなく秘密めかした妖しさが漂っていた。
  その雰囲気は何か人を寄せつけないような…、
  宗教的な感じさえ…
  そう、その事に僕は気付くべきだったのだ。
  でも慌てていた僕は不用意にそこに入って行ってしまった。

 最初に気付いたのは、みんなが黒い服を着ていると言う事だった。
  女達はバイアの街でよく見掛けるヴァタパ売りのバイアーナと同じ裾の大きく広がったレースのドレスを着ていたが、それはいつもの見慣れた白では無く、墨のような光沢の無い黒だった。男達も上半身は裸で、下に柔道着のような黒いズボンをはいていた。彼等の褐色の逞しい胸は汗で光っていた。
  十人程の女達が真ん中で輪になって歌いながら踊り、男達はそれを取り囲むようにしてコンガを叩いていた。女達の表情は陶酔しきっていて妖しく、歌声は殆ど動物の呻き声のように意味もなく重なりあっていた。女達が周りの激しいリズムとは反対に深海を蠢くように緩慢に揺れると、それと共に首や腕に巻いた銀の飾りが物憂げに鳴って伴奏を付けた。
  路地の奥に作られた祭壇のような所に、何百本もの蝋燭の炎が揺れていた。その光りに照らされている場所だけが暗黒の空間から切り離されて浮かんでいた。
  そして僕は女達の何人かの頭を赤く濡らしているのが、何かの動物の血だと気付いた。
ここに居てはいけない!という気持ちが急激に湧き上がってきた。
  でも、僕の目はその光景に釘付けにされたまま動けなかった。
  キーッ、鳥のような声を上げて、真ん中に居た女が僕を指差した。
  女は陶酔から覚め、突然現れた闖入者に憎悪の炎をたぎらせていた。赤い血を浴びた顔の中で目だけが異様に輝いていた。
  輪になって人達が一斉に僕の方を振り返った。
  誰の目の中にも容赦のない敵意が宿り異様に輝いていた。まるでテリトリーを侵されて怒っている狼の目だ。
  そして最後に一番僕の傍に居た、背が高く相撲取りのように太った女が振り返った。
  その瞬間、僕は女の向こうに横たわっているものを見てしまった。
  それは素裸の白人の女の身体だ。
  女は長い金色の髪を石畳の上に無造作に広げ、両腕を十字架のように広げた恰好で、作りそこなったマネキン人形のように仰向けに転がっていた。ガラスのような青い目は焦点を失い、無意味に宙空を見つめていた。重い闇に覆われた人の輪の中で、その姿だけが異様に白く浮き上がっていた。豊かな胸は仰向けになっていても大きく盛り上がり、ピンクの乳首がその頂上に乗っかっていた。
  そして、その下の平らな腹は無残にも切り裂かれ、夥しい血がくびれた腰のあたりから流れ落ち路地にどす黒い血溜まりを作っていた。
  女が一人しゃがみ込んでその血溜まりの中に両手を付き、呆けたように僕を見つめている。
  血で手が汚れてるよ…。
  僕はあまりのショックに恐慌をきたした頭でぼんやりとそんな馬鹿な事を考えていた。
  その時相撲取りのような女が猛烈な勢いで僕に突進してきた。
  そしてその瞬間僕は正気を取り戻した。
  弾かれたように振り返り、僕は必死で逃げ始めた。
  息を吸うばかりで吐く事が出来なかった。
  心臓が苦しいぐらい早く回転した。
ドスッ、ドスッ、と太った女の足音と、それに呼応してガチャガチャと鳴る銀の飾りの音が迫ってきた。
  僕にとって幸いだったのは、追手がその太った女一人で、他の人間はどういうわけか、そこに張りついたまま、動かなかったことだ。
  逃げおおせるかも知れない…。
  燃え上がる殺意ではなく、おき火のように静かな殺意を漂わせ、女は僕を追ってきた。その事がより僕を脅えさせた。相手が女一人という事は関係ない。捕まれば、命はない。そう僕の本能が教えていた。
  女をまいてしまおうと、僕は複雑に路地を曲がった。女は相変わらずドスッ、ドスッと足音をさせながら迫ってきていた。僕は全速力で幾つかの路地を駆け抜け、後ろを振り返った。あんな太って足の遅い女なら付いて来れないだろう…。
  しかし、その時広がったスカートの裾を大きく揺らし、相変わらず同じペースで、僕が最後に曲がった角を女が曲がってくるのが見えた。
  銀の飾りがジャラジャラとその場の雰囲気に似合わない陽気な音を立てていた。
  「なんて事だ!」僕は胸の中で呟いた。
  黒い顔は闇に溶けてその表情は見えなかった。でも丸太のような腕をゆっくりと振りながら、確実にこっちに向かって来ていた。
  女はまるで僕を捕まえるのではなく、ただマラソン選手のように淡々と自分のペースを守って走っているみたいに見えた。足音と共に、女のスーッ、ハーッ、という規則正しい息づかいが聞こえる。足並に合わせて鼻で吸って、口で吐く。それはむかし学校の体育の時間に習った、長距離走行の呼吸法だ。
  僕はパニックに襲われた。
  このままではあの女を振り切れずに捕まってしまうのかも知れない。
  そして腹を裂かれて倒れていた女の姿がオーヴァーラップする。
  この次、あの黒いドレスを着た女達の真ん中で裸にされて横たわる事になるのは、僕かも知れない…。
  「お願いだから、止めてくれ」
  いつの間にか僕は胸の内でそう繰り返しながら走っていた。
  無茶苦茶なペースで走ったせいで僕はすぐに疲れはじめた。
  “アバランダ”で調子に乗って飲み過ぎた事を後悔した。下腹部が痛くなってきて、一歩一歩足を上げるのが重労働になってきた。何度も足がもつれ、倒れそうになるのを何とか持ち堪えた。
  女は急激に間隔をつめる事はしなかったが、徐々に、確実に、近づいてきた。
  ドスドス、ガチャ、ガチャ、スー、ハーという音がより間近に迫って来た。
  今やその音は僕の胸の中から聞こえるようだった。
  ドスドス、ガチャ、ガチャ、スー、ハー……。
  振り返るとすぐ側に女が迫っていそうで、僕は後ろを振り返れなかった。
  ドスドス、ガチャ、ガチャ、スー、ハー……。
  ドスドス、ガチャ、ガチャ、スー、ハー、スー、ハー……。
  「お願いだ…」僕の頬には涙が流れていた。
  最後の力を振り絞って、僕は路地を駆け抜けた。
  それが本当に最後の頼みの綱だった。誰かそこに居てくれなければ…。

激しいブレーキの音。
  そしてけたたましいクラクションの音と共に、フスカ(フォルクス・ワーゲン)のタクシーはハンドルを大きく切って、僕の数センチ先を通り過ぎた。
  「フィリャ・ダ・プータ(馬鹿野郎)!」
  運転手の男は窓から拳を突き出すと、僕に罵声を浴びせた。
  車と衝突することは免れたが、僕は激しくひっくりかえって車道のアスファルトの上に叩きつけられた。
  まわりの他の車からも容赦なくクラクションが鳴らされた。
  僕は慌てて立ち上がると歩道に戻ろうとした。
  激しい痛みが体を突き抜けた。ひっくり返った時に左の足首を傷めたらしい。
  惨めな負け犬のような姿で、僕はびっこをひき、傍の壁に寄り掛かった。目を閉じて深呼吸すると、唇が震え小刻みにしか息を吸い込む事ができなかった。
  その時誰かが後ろから肩をつかんだ。
  僕は激しい悲鳴を上げた。あの太った女だ…。
  しかしそこには脅えた表情の老人が立っているだけだった。僕の様子を気づかって、声を掛けてくれようとしたのだ。僕は息をつぎ震える声で老人に詫びた。でも彼は強張った顔のまま後ずさって行った。
  そこは見慣れた中心街だった。
  何時の間にか夜は白々と明け、仕事に向かう人達が胡散臭そうに僕を見ながら通り過ぎていった。これから一日が始まる人達にとって、汗まみれのシャツを着て、不精髭を生やし、その顔に恐怖を凍りつかせている東洋人は、異様に見えただろう。
  僕を追っていた女の姿は何処にもなかった。
  ホテルに帰りシャワーを浴びて着替えると、僕はすぐに荷物をまとめ空港に向かった。そしてリオ行きの最初の飛行機に飛び乗った。
  もう一分もバイアには居たくなかった。

あの時結局僕は足をくじいただけで他は無事だった。ただ走り回っている途中で財布を無くしたらしく何処を探してもみつからなかった。でも大した金が入っていたわけではないし、そんなに気にならなかった。前回殆ど全財産を掏られたのに比べるとはるかに被害は少いし、何よりも無事で帰れたのだから…。
  ただその財布にはリオで知り合った日本人の友達の名刺が入っていた。彼らは留学や農業研修で来ている人達だったが、僕と同様音楽が好きで気が合った。
  僕らはよくコパカバーナのカフェ・テラスで待ち合わせし、一緒にいろんなライヴ・ハウスに出掛けた。僕が案内役になりいろんな所で朝まで飲んだ。それまではどこに行っても唯一の日本人だったので、仲間が出来たのが嬉しかった。
  よく「日本人は働くばっかりで遊んだりしないのか?」等と厭味っぽく言われたりしたが、御陰でそんな事はないという証明ができた。
  僕がバイアに出掛ける頃、彼らはひと足先に日本に帰る事になっていた。そして僕が日本に帰ったら、連絡を取り合って飲み会をやろうと言い合っていたのだが、これでもう連絡をとる事は出来なくなった。僕の方は日本に帰ると住所が変わるので、連絡先を教えていなかった。
  飲み会はもう出来ないだろう。
  でも、旅先で知り合う人間なんてそんなものかも知れない。

 あの後、結局僕はリオから出ずじまいだった。
  二、三回馴染みのライヴ・ハウスやバールに行ったが、その他は殆どアパートから出なかった。とくに夜は出歩きたくなかった。
  誰にもあの夜の話はしなかった。
  口に出して言うのさえ恐ろしかった。心の何処かであれは夢だったのじゃないかと思う気持ちもあったが、それはほとんどそうあって欲しいという願望でしかない事は自分でもよく分かっていた。 そしていくら時間が経っても、あの時の情景ははっきりと胸に蘇って来るのだ。
  それでも一度だけ人事のようにして、黒服で集まる人達の儀式の事を聞いてみた事がある。例のバイアに詳しい友達はそれはカンドンブレの黒ミサだと言った。
  普通のカンドンブレの儀式は白い衣装で行われるのだが、より強力で邪悪な力を求める時、厳重な秘密の上で黒ミサが行われる。そこでは悪魔に捧げる生贄の血が必要で、
  「最悪な奴だと、人間の女を生贄に使うこともあるんだぜ」
  友達はそう言った。その時僕の顔が青ざめたのを彼は知らなかった。
  「でもそんなもの普通の人間じゃ絶対に見たりできないよ。部外者が見たりすると、必ず殺されるらしいからね…」

夏の終わりのブラジルから、僕は春の初めの日本に帰って来た。従兄が空港まで迎えに来てくれていた。従兄は僕の日焼けした顔を見て「まるで原住民だな」と言った。
  山のような荷物を小さな車に積み込んで、僕らは走り始めた。
  高速道路から見下ろす街並みは灰色にくすんでいた。久し振りの日本は色に乏しく狭苦しく見えた。空気がひんやりと湿り気を帯びていて、それが日本に帰って来たという事を実感させた。着いてほんの何分も経っていないのに、もうブラジルに居た事が夢物語のような気がしていた。車の中でみやげ話をしていても、それが本当にあった事なのかどうかあやふやな気分だった。
  都内に入ると気違いじみた渋滞が待っていた。でも咲き初めたばかりの桜の花を見た時素直に美しいと思えた。そしてつい先刻地球の裏側から帰って来たのだという実感が強く湧いてきた。

 しばらく実家にいて、アパートと仕事を探した。全部が落ち着くのに一月半ぐらい掛かった。ブラジルに長く居た事で一番ズレを感じたのは時間の感覚だ。日本では交通機関も早く終わってしまうので、ブラジルの時のように夜中まで遊び歩けない。その事がどうしてもすんなりとは受け入れられなかった。そして何度も、気がつくと馬鹿高いタクシーに乗るというはめになったりした。

 ある朝、まだベッドとギターと沢山の段ボール箱が乱雑に散らかっているアパートで、僕はコーヒーを飲みながら、新聞を広げていた。やはり一年近く日本を離れているといろんな状況が新鮮に見えた。
  政治欄や経済欄を読み飛ばし、三面記事を開いた時だった。僕は見慣れた名前が載っているのに気付いた。
  横川忠夫(20才) 、
  それは僕がリオで知り合ったJ大学の学生だった。そして例の飲み会をやろうと言っていたメンバーのうちの一人だ。その彼がビル掃除のアルバイトの最中に誤って十階の窓から転落して死んだのだ。関係者の話では、全く考えられない事故だと書かれていた。
  人間なんて分からないものだ、という気がした。
  横川は仲間の中では一番タフな奴で、いつも明け方までライヴ・ハウスなんかで遊んでいた。みんながもう帰ろうと言っても「ああ、もう少ししたらね…」といいながら粘っていたものだ。そして次の朝には誰よりも早く起きて、海岸に出掛けて行くのだ。彼もとても音楽が好きで、一度彼の部屋に遊びに行った時部屋中がブラジルで買い漁った楽器とレコードで一杯だった。
  僕はその記事の住所を見て、お通夜に行く積もりだったが、時間が取れなくてそのままになってしまった。

 それからは部屋の整理や、新しい仕事に慣れる事で毎日が過ぎていった。
  僕は何とか広告制作会社のコピー・ライターにおさまり、自分では目一杯働いているつもりだった。ただまわりは僕の余りのスロー・ペースに驚いたようだったが…。
  横川の事が新聞に出てから二週間程たった日曜日の朝だった。
  まだ部屋のあちこちには段ボールの箱が転がっていた。引っ越しの荷物が片づくのにはもう少し時間がかかりそうだった。朝食が終わった所で実家の母親から電話が掛かって来ていた。僕は受話器を肩に挟み、不味いコーヒーをすすりながら次々と出てくる小言にいい加減な相槌を打っていた。テーブルの上には新聞が広がっていて、僕の心は母親の声より新聞の記事の方に集中しているような具合だった。スポーツ欄には相変わらず詰まらない野球の話題ばかりが載っていた。そして三面記事を開くと、これもいつものように交通事故の話題が大きな写真入りで載っていた。
  千葉の一面畑しかない見晴らしのいい場所で、車が電柱に激突し、運転手とその恋人らしい女性が死亡していた。
  馬鹿な奴だ、と思った。どうせ酒にでも酔ってぶっ飛ばしたのだろう。
  全く暴走族のやつらのやる事は…。
  その時僕は危うく受話器を落としそうになってしまった。
  立島秀男(22才) 、
  それはやはり僕と飲み会をやるはずになっていたメンバーの一人だ。
  気がつくと受話器の向こうで母親が怒鳴っていた。
  「…あんた聞いているの!私はあんたの事を心配してるんだからね」
  「ああ、でもちょっと御免ね、今すぐにかたずけないといけない事があるんだ。またすぐこっちから電話するよ」
  僕は慌てて電話を切ると、もう一度その記事を読み返した。
  間違いなかった。僕の知っているのと同一人物だ。千葉の農家の息子で自分も農業をやるために、研修を兼ねてブラジルにきていた奴だ。
  運転手が酒に酔っている気配は無かったと書いてあった。それはそうだ、彼は一滴も飲めないのだから。でも不思議とみんなが飲んでる席でも平気らしく、いつもガラナか何か飲みながら、にこにこと機嫌よさそうにしていた。とても穏やかな性格の奴で、何をするのにもおっとりとしていた。そんな奴が車をぶっ飛ばしたりするだろうか?
人間なんて分からない…。
  いや、そうとは言えないかも知れない。
僕はあの財布の事を思い出した。あの中には二人の名刺が入っていたのだ。
  「そんな馬鹿な!」僕は呟いた…。
  カンドンブレの事はよく知らないが、とにかく呪いを掛けるのには、相手の髪の毛とか爪とか、あるいは身に付けていた物が必要だ、と聞いたことがある。そんな物があの財布に入っているはずはなかった。それになんといっても、ここは地球の裏側だし、どう考えても偶然だとしか考えられない…。
  でも…、
  あの夜の事が二人の死に関係しているという、漠然とした思いは拭い去れなかった。

 その夜僕は夢を見た。
  あの太った女がいつまでも僕を追いかけて来た。
  「助けてくれ…!」
  そう叫びながら、僕は人気のない街を走り回った。
  路地は果てし無い迷路のように続き僕は完全に方向感覚を失っていた。
  絶望感が首筋を冷たく覆い、口の中は砂漠のように乾いていた。
  そのせいで舌が膨れ上がり、唾を飲み込むのも困難だった。
  いつまでも、ドスッ、ドスッ、という足音とスーッ、ハーッ、という女の息づかいが耳にまとわりついた。
  僕は走りながら耳を覆ったがおなじことだった。
  その音はテレパシーのように直接僕の胸に届いて来た。
  そしていつの間にか僕は袋小路に入り込んでしまっていた。
  行き止まりの壁を僕は虚しく叩いた。
  手の骨の当たる鈍い音がしたが、痛みは全然感じなかった。
  冷たい石の壁はびくともしなかった。
  僕は声を上げて泣きながら、壁を背に振り返った。
  黒い固まりがゆっくりと角を曲がって現れるところだった…。
  スロー・モーションのように黒いスカートの裾がひるがえった。陰になって表情はよく見えなかったが、女は笑みを浮かべているらしく、白い歯だけがきらっと光った。
  そしてその後ろには裸の女が腹から血を流しながら続いているのだ…。
  ウォーッ、僕は悲鳴を上げながら目覚めた。
  気が付くとベッドの上で汗まみれになっていた。僕は起き上がり水を一杯飲んだ。少し気分が落ち着いた。
  女の足音だと思ったのは自分の心臓の音だった。

 それから毎日、目を皿のようにして新聞を見た。しかしそれ以後僕の知っている人間が三面記事に載っている事はなかった。
  そのうちに今までの事はただの偶然だったのだと思い、いや、思い込もうとし始めていた。あの夜の夢はそれからも何度か見たが、それも日が経つにつれて、頻度が減って来ていた。そして半年程が何事もなしに過ぎた。僕は日本のペースに慣れ、仕事も何とかこなしていた。心の何処かで例の財布の事は引っ掛かっていたが、殆どの時間はもうその事を忘れていた。
  大体のものが収まる所に収まり僕の部屋もやっと人の住む所という感じになってきた。
  僕はムウという、変わったあだ名の女の娘と、朝のコーヒーを飲んでいた。
  ムウは三ヵ月ぐらい前に知り合ったガール・フレンドだ。恋人というにはちょっと冷めた関係だけど、気が向くとおたがい連絡を取りあってデートしたり、一緒に一晩ぐらい過ごしたりする仲だった。
  彼女の大きな目は、白い所が磁器のように青みがかっていて、僕は好きだった。彼女は僕が弾くボサノヴァが好きなようだ。
  長い髪を片手で押さえながら、彼女がコーヒーを飲む仕種を、僕はぼんやりと眺めていた。僕のパジャマを着たままのムウはより華奢に見えた。湯気が静かにマグカップから立ち昇っていた。
  その時彼女が急に思い出したように言った。
  「あなた、田丸さんを知ってるんだってね」
  「田丸?」
  ちょっと考えてみたが、その名前には心あたりは無かった。
  「あなたと、ブラジルで一緒だった、て言ってたわ」
  僕は思い出した。
  「ああ、あの田丸君ね。ちょっと太ってる人だろう。
  よくリオで一緒に飲み歩いたよ。
  へえ、君、彼を知っているの?」
  そう言えば彼はどこかの商事会社の仕事で来ていた。なかなか愛想のいい奴でどこのバールに行っても、不思議と人気があった。言葉は余り出来ないのだが、とにかく片言のブラジル語を乱発して陽気に誰とでも付き合うのだ。
  「俺は日本で生まれたブラジル人だぜ、アミーゴ」
  彼の得意のフレーズが聞こえるようだ…。
  「そう、あの人うちの会社によく出入りしてたのよ。
  いつかブラジルの話が出てね、私があなたの事を話したら、田丸さんもあなたを知ってる、て言うのよ。それで、世間なんて狭いわね、なんてひとしきり盛り上がったの。
  あの人あなたに逢いたがっていたわ」
  「ああ、僕も逢いたいな」
  急にリオの街の情景が生々しく胸に浮かんで来た。

 「田丸さん、先週死んだわ」
  一瞬彼女の言葉は僕の頭に何も残さないで、通り過ぎてしまった。
  「ええ?今なんて言ったの?」
  「田丸さん、先週亡くなったのよ。心臓マヒですって」
  僕の顔は懐かしいリオの思い出を胸に描き、微笑んだままこおりついてしまった。
  「人間て分からないものね…。
  あんなに健康そうな人だったのに…」

 「ええーっ!」
  体中の毛が逆立った。
  人間て分からないもの、だろうか?
  僕は何となくこの事を予想していた気がした。
  そしてあの夜の事がまたはっきりと僕の胸に蘇ってきた。
  今夜又僕はあの夢を見るだろう。

 ところであの財布の中に、僕の名刺か名前を書いたものが残っていただろうか?
  僕は必死で思い返していた。
  多分、なかったと思うけれど…、
  確信はなかった。

 「ねえ、ムウ」
  田丸君の事を詳しく聞きたくて、僕はムウの方を見た。
  ちょっと俯き加減なせいで、ムウの顔は長い髪に隠れてよく見えなかった。
  ムウは何も答えなかった。
  ただ指で髪をいじりながら、うす笑いを浮かべているようだった。
  白い歯だけがやけにはっきりと見えた。
  ムウがズズーッ、と音を立ててコーヒーをすすった。
  その音が耳に障った。
  僕は何となく落ち着かなかった。
  もう一度「ねえ」と声を掛けた。
  それでもムウは答えなかった。
  違和感が霧のように僕を包んでいる。
  ムウがマグ・カップを置いた時チャリッという音がした。
  今まで気が付かなかったけれど、ムウの腕には銀の腕輪が鈍く輝いていた。
  その腕がそうとう日焼けしているみたいな褐色をしている。
  冬だというのに…。   


以前からちょっとした小説まがいのものを書いてみたいという気はあったのですが、ペンや鉛筆を持つ時、ギターを弾くせいでいつも親指の爪を少し伸ばしていて、それがあたって長い時間書けないのが悩みでした。初めてワープロを買った時指が痛くならないのが嬉しくて、続けざまにいくつかの話を書いたのですが、その最初のものです。(中村談)(かなり長いのでオフ・ラインでお読みください)